なぜクラウンだけが未だに堅調なのか
クラウンも、世代によって販売の浮き沈みはあった。それを支えたのは、1950年に設立されたトヨタ自動車販売(トヨタ自販)の影響ではないか。
クルマを開発するトヨタ自動車工業(トヨタ自工)に対し、新車の販売等を行うのがトヨタ自販だ。
戦後の金融引き締めと、割賦販売(自動車ローン)の負担から経営危機に陥ったトヨタが、銀行からの融資を受けながら販売を強化するために設立したのがトヨタ自販であった。そして直営店として、東京トヨペットが誕生する。
トヨタ自販が接するのは消費者(エンドユーザー)であり、その意向がトヨタ自工での新車開発に影響を及ぼしたと考えられる。
例えば、3代目のクラウンは、斬新な外観の造形を採り入れたが消費者の好みに合わず、2年後のマイナーチェンジで素早く顔つきを変更した。そのうえで、クラス初となる2ドアハードトップという流麗な外観を持つ車種を加え、「SL」と呼ぶスポーティな車種も加えた。
5代目では、4ドアセダンのほかに、4ドアでありながら「ハードトップ」という車種を追加した。
4ドアハードトップの発想は、セドリック/グロリアが先であったが、クラウンでは前後ドア間の支柱(Bピラー)を残しながらサッシュレスの窓ガラスを採用することで、車体剛性を保持しながら流麗な外観を両立した。
1983年の7代目で、「いつかはクラウン」という今日も有名な宣伝文句が話題となった。また、「1G型」という、新世代の直列6気筒エンジンを搭載し、単に上級な重厚さだけでなく、快活に走る4ドアセダンの印象も加えた。8代目では、アスリートの言葉を使いはじめている。
1991年の9代目から、すべての車種が3ナンバー化された。しかし当時はバブル経済の影響をまだ反映した時代であり、消費者も5ナンバー車の選択肢がなくなることへの拒否感が少なかったといえる。
逆にいえば、それまで1970年代から3ナンバー車を加えながら、5ナンバーを残し、慎重に3ナンバー化の時期を探っていたのではないか。
今もトヨタ支えるクラウンの「顧客ファースト」
21世紀を迎え、2003年の12代目で「ゼロクラウン」と銘打ち、クラウンの価値を改めて問い直すことをトヨタは行った。背景にあったのは、歴代所有者の高齢化である。初代トヨペット・クラウンの誕生から、50年が経とうとしていた。
トヨタ自販は、1982年にトヨタ自工と合併し、トヨタ自動車に統一された。
だが、30年以上に及びトヨタ車を愛好し、代替えをし、カローラからコロナ、そしてマークII、クラウンと乗り継いでくれる顧客を大切にした消費者への接し方は、いまもトヨタを支え、また販売店に息づいているだろう。
自動車メーカーの都合で効率化をはかり、グローバルカーの一台を国内で販売する、あるいは愛された車名をグローバルに統一してなくすといった、優良顧客(ロイヤルカスタマー)の心情をないがしろにするようなことを、少なくとも国内専用車であるクラウンでトヨタは行っていない。
たしかに、マークIIをマークXとしたあと、廃止にしたり、ヴィッツをグローバルのヤリスへ車名変更したり、トヨタも合理化を行っている。
そのなかで、クラウンはクラウンであり続けることで、売れ行き不振といわれる4ドアセダンで着実な販売を維持しているのだと思う。そのトヨタの誠意は、消費者も忘れないはずだ。
一方、トヨタに比べ規模の小さい自動車メーカーでありながら、時流に合わせ合理化によって収益を追求し、優良顧客を手放してきたのがほかの自動車メーカーではないか。
中小の企業ほど、本来であれば優良顧客を手放すべきではない。あえて大手ではないメーカーを選んでくれた消費者だからだ。何世代も乗り継いだ顧客の心情を理解できるメーカーこそが、プレミアムブランドではないだろうか。
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