時は2118年4月。今からちょうど100年後だ。自動運転後の世界で、“運転”という行為は絶滅しているだろうか? その答えは「No」、運転する楽しみは今と変わらず残る。そう分析するのは自動運転に造詣が深い、交通コメンテータの西村直人氏だ。今、開発が進められているのは「ドライバー不在の自動運転」とはちょっと方向性が違う。
文:西村直人/写真:Shutterstock.com、編集部、NISSAN
100年後も運転の楽しさはなくならない
正式名称を「自律自動運転」とする自動運転の技術は、間違いなくこの先の自動車社会を大きく変えていくでしょう。自動運転には人々の移動に対する夢があり希望があるからです。
さらに、未だに年間多くの死傷者が発生する交通事故においても、いわゆる自動化レベルの向上(5段階のうちレベル4やレベル5)によって大幅に抑制できる可能性が秘められています。
一方で、自動運転社会の全体像がぼんやりと見え始め、自動運転を実現する技術が少しずつ現実のものになってくると、「自動運転によって運転の楽しさが奪われてしまうのではないか」との懸念が生じてきました。
しかし、この先、100年の歳月が経過しても運転する楽しさは、今と変わらず残っていると筆者は考えます。
その根拠は、自動運転、つまり自動走行状態を公道で、しかもあらゆる条件のなかで継続させるためには「人と機械の協調運転」が必須になるからです。
また、未来永劫、自動運転はドライバーがスイッチを「オン」するものであり、必要がなくなればドライバーが「オフ」にするものであるという基本的な考え方が根底にあることも大切な事柄です。
開発が進むのはドライバー不在の自動運転ではない
よって、機械に翻弄されるのではなく、良きパートナーとして車内に迎え入れるというスタンスが理想的です。
自動運転という言葉の響きは非常に魅力的です。しかし、多くの自動車ユーザーがイメージしているであろう“ドライバーの介在しない自動運転”といった世界と、現在開発が進んでいる“自動運転技術”とはやや趣が異なります。
内閣府で自動走行システムを取り纏めている「※SIP-adus」では、自動運転を「運転操作の自動化」や「自動走行状態」と表現し、自動走行が行える場所と必要な技術を掛け合わせた「カテゴリー」という概念も使い始めました。
このようにSIP-adusでは単なる“全自動化”を最終目的とせず、「これまでドライバーが行ってきた運転操作を一部や、そのほとんどをシステムが代行することによって自動走行状態が保たれること」を目指しているのです。
※SIPはStrategic Innovation Promotion Program、adusはAutomated Driving for Universal Servicesの略。国主導の技術革新プログラムにおける自動走行システムの意
自動運転化後も「運転する楽しさ」がなくならない理由
自動運転社会になっても車を運転する楽しみはなくなりません。その理由は非常に明快です。前述した人(ドライバー)と機械(システム)の協調運転(詳細は拙著「2020年、人工知能は車を運転するのか」)にそのヒントがあるからです。
現在、「自動化レベル1」と定義されるACC(先行車追従型クルーズコントロール)は2017年末現在、日本で約30%の普及率を誇っています。
前走車に追従するようシステムがアクセルとブレーキを一定の範囲内でコントロール(≑範囲外ではこれまで通りドライバーが運転)することで、長距離走行時の疲労軽減効果が望めます。
利用された方々はよくおわかりのとおり、「快適に長距離走行がこなせるようになりありがたい」と感じることはあっても、「運転する楽しさを奪われた」と嘆くことは少ないのではないのではないでしょうか?
「自動化レベル2」の世界ではさらにシステムとの協調度合いが進みます。
例えば、ACCに車線の中央を維持するようステアリングの操舵サポートを行う「レーンキープサポート」をドッキングしたトヨタ「レーントレーシングアシスト」、日産「プロパイロット」、ボルボ「パイロットアシスト」などでは、アクセルとブレーキに加えてステアリング操作の一部もコントロールされるため、事故の発生確率が上がる夜間でも優れた運転支援を受けることができます。
こうした自動化レベル1やレベル2の世界に共通して存在する運転の楽しみは、ドライバーが主体となりながら、時にシステムの運転支援をドライバーが受け入れることで、身体的な緊張や事故のリスクを減らすことができ、同時に移動距離を伸ばせることにあります。
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