トヨタのクラウンと並んで日本を代表する高級サルーンとして君臨していたセドリック/グロリア。しかし、今も続くクラウンに対して、セドリックは10代目で、グロリアは11代目で消滅し、両車はその後に統合され、フーガに名前を変えてしまった。
なぜクラウンに差を付けられて、名前を変えなければならなくなったのか? セドリック/グロリアの歴史を振り返る。
文/片岡英明 写真/NISSAN
【画像ギャラリー】セドリック/グロリア45年にわたる栄光と挫折の歴史を写真でチェック!!
■クラウンを追って、グロリアとセドリックが誕生
今につながる日本の高級車は、1955年に誕生したトヨタのクラウンに始まる。公用車として使われることが多かったが、成功の証として乗りたいと思う富裕層も少なくなかった。
このクラウンを追って富士精密工業(後のプリンス自動車)は1959年2月にグロリアを発売している。戦後の日本車としては初めての3ナンバー普通車で、国産最強スペックを誇った。また、西陣織の高級なシートや後席アームレストなど、装備も驚くほど豪華だ。
当時はライバル関係にあった日産は、その1年後の1960年3月にセドリックを投入した。日産車初のモノコック構造を採用し、ヘッドライトは両端に縦2灯のレイアウトだ。こちらは5ナンバー車だが、「ダットサン」より車格は上だから「ニッサン」ブランドを冠している。
それを証明するように小型車の規格が改正されると、ホイールベースを100㎜延ばし、1.9Lエンジンを積む「カスタム」を加えた。格納式のアームレストに加え、後席用ヒーターも装備して話題を集めている。
■セドリックとグロリアが兄弟車になるまでの歴史
3車は競い合いながら技術を磨き、日本に根付いた高級車文化を高いレベルに引き上げていった。
グロリアは1962年9月に2代目にバトンタッチし、1963年には日本初のSOHC方式の2L直列6気筒エンジンを積むスーパー6を追加している。これ以降、高級セダンの条件に6気筒エンジンが欠かせないものになるのだ。
同じ時期、日産は後席の足元空間を広げた日本初のVIPセダン、セドリック2800スペシャルを送り出している。直列6気筒は日本車で最大排気量だった。
張り合うようにプリンス自動車も、東京オリンピックを前に、2494ccの直列6気筒SOHCエンジンを積み、パワーウインドウやパワーアンテナを標準装備し、パワーシートを設定するグランドグロリアを送り出している。
クラウンも8気筒エンジンを積むクラウンエイトを投入した。快適な3ナンバー車の設定、これも高級車に必要な条件となっている。
1965年秋、セドリックは2代目を投入した。1967年にはグロリアも3代目を投入するが、プリンス自動車は日産に吸収される形で合併したから、日産グロリアを名乗っている。
そして1971年2月、セドリットとグロリアはモデルチェンジを機に兄弟車になり、新たなスタートを切った。1960年代まで、単独ではクラウンに叶わなかったが、1970年代からは連合軍でクラウンに挑み、一気に販売を伸ばしていく。
コメント
コメントの使い方