日産らしいクルマといえばスカイラインやフェアレディなどがすぐに頭に浮かぶが、ヨーロッパの度肝を抜いたFFセダンの名車もある。
それが「稀代の名車」と言われながら、たった2度のモデルチェンジで姿を消した「日産プリメーラ」だ。
日産が存続をかけて開発に取り組んだ初代プリメーラは、当時クルマとしての性能では日本車にとって雲の上のような存在だった欧州のコンパクトセダンを脅かすほどの仕上がりで、欧州を驚かせたモデルだ。
実は筆者もプリメーラの元オーナー。P10プリメーラは何が凄かったのか、振り返ってみよう。
文/吉川賢一、写真/NISSAN
■「技術の日産」にとっては悔しかったBe-1のヒット
いまでは考えられないことだが、1970年代の国内自動車市場は、日産とトヨタの2強状態。毎月販売台数を競いあうような状況だった。しかし、次第に日産の販売台数が落ち込むようになり、80年にはシェア20%を割り、1986年には赤字計上するまでに落ち込んでしまった。
そんな折、日産は初代マーチをベースにしたパイクカーの第一号、「Be-1」(1987年)を発売。ご存じの通り、Be-1は大ヒットする。だが、「企画がヒットしたBe-1」は、「技術の日産」を自負していた開発エンジニアたちにとっては、悔しくてしょうがなかったそうだ。
また、当時の日本車は、クルマの本質である「走り」において、欧州車にまったく歯が立っていなかった。巨大なマーケットである海外でシェアをあげるには、どうしても「走りの性能」を磨かないとならない、日産はそう考えていた。
■やらなければ、そこで終わり
そこで日産は、「1990年代までに運動性能で世界一になり、技術の日産復活させる」ことを目標とした、いわゆる「901活動」を立ち上げる。1990年以降に新車デビューする全車種を対象に、シャシー、エンジン、サスペンションを更新し、ハンドリングや品質向上の技術開発を行う、としたのだ。
当然、社内には「そんなの無理だ」という者が多くいたそうだが、「やらないと負ける(後がない)」状況であり、やるしか道はなかった。そんな901に携わったエンジニアチームの会議は、連日、午前様だったそうだ(R33、R34開発責任者の渡邉衝三氏の講演会でのコメント)。
その会議のなかで立てられた目標が、「catch the GTi and 944」だ。「GTi」はFF界のナンバーワン、フォルクスワーゲンのゴルフのこと、「944」はご存じFR界のナンバーワン、ポルシェ944ターボだ。
当時、欧州車最高の運動性能を持っていたクルマであり、雲の上のような存在だったが、日産はそこを開発目標と定めた。ゴルフとポルシェを、パーツ単位まで完全分解し、そこから対策案を考えていったそうだ。
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