1970年代、日本の自動車メーカーは、日産自動車とトヨタ自動車の2強状態で、毎月販売台数を2社で競うほど、日産の販売は好調だった。しかし、その後徐々に落ち込み、80年にはシェア20%を割るようになり、1986年には赤字計上するまでに落ち込んでしまった。
自信をなくし、日々募る焦りや不安から、当時の日産社内の雰囲気は、決していい雰囲気ではなかったそうだ。どんなクルマをつくったらいいのか、わからなくなっていたという。
そんな折、日産は「Be-1」を出した。ご存じの通り、Be-1は大ヒットする。だが、「企画がヒットしたBe-1」は、「技術の日産」を自負していた開発エンジニアたちにとっては、悔しくてしょうがなかったそうだ。
その出来事が、「901活動」のはじまりだった。今回は、「901活動が日産に残した遺産」について、考察してみようと思う。
文/吉川賢一 写真/Nissan、Volkswagen、Porsche、ベストカー編集部
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■「901活動」は、開発エンジニアたちのマインドセットから
80年代までの国産車は、クルマの本質である「走り」において、欧州車にまったく歯が立っていなかった。
そこで日産は、長期的な戦略として、「1990年代までに運動性能で世界一になり、技術の日産復活させる」ことを目的とする、「901活動」を立ち上げた。1990年代までに、新車デビューする全車種を対象に、シャシー、エンジン、サスペンションを更新し、ハンドリングや品質向上の技術開発を行う、としたのだ。
「1990年代までに」、ということは90年にはその方策やクルマが見えていないとならない。当然、社内には「そんなの無理だ」という者が多くいたそうだ。そうした負のマインドセットを変えていくことから、スタートしたという。
■901活動を通して自信を取り戻した
901に携わったエンジニアたちの会議は、毎日、午前様だったそうだ(R33、R34開発責任者の渡邉衝三氏の講演会でのコメント)。
その会議のなかで、ある目標宣言をしたという。
「catch the GTi and 944」だ。「GTi」はFF界のナンバー1、フォルクスワーゲンのゴルフ、「944」はFR界のナンバー1、ポルシェ944ターボ。
両車とも、当時欧州車最高の運動性能を持っていたクルマであり、それらを開発目標と定めた。目標が決まれば、「達成するためには何が必要か」を考えるのは、エンジニアの得意技だ。ライバル車をパーツ単位まで完全分解し、そこから対策案を考えていったそうだ。
いい商品を作り、ジャーナリストや日産外のプロドライバーにも試乗して認めてもらう、特許や論文を多く残すなど、901活動のなかでは、開発エンジニアたちが技術面で自信を取り戻す土壌もつくられていった。
「あれほどモチベーションの高い開発現場に身を置いたのは、後にも先にも901だけだった(渡邉氏)」という。
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