世の中には「珍車」と呼ばれるクルマがある。名車と呼ばれてもおかしくない強烈な個性を持っていたものの、あまりにも個性がブッ飛びすぎていたがゆえに、「珍」に分類されることになったクルマだ。
そんなクルマたちを温故知新してみようじゃないか。ベテラン自動車評論家の清水草一が、往時の体験を振り返りながら、その魅力を語る尽くす当連載。第7回目となる今回は、トヨタが生んだ珍名車「iQ」のアストンマーティン版、知る人ぞ知る「シグネット」を取り上げる。
文/清水草一
写真/ASTON MARTIN、フォッケウルフ
■レアなトヨタiQのさらに激レア版!
2008年に発売されたトヨタiQは、ヨーロッパにおけるスマート フォーツーの人気に対応して、トヨタが開発した超小型車だが、2008年から2016年までの長きにわたって生産されたわりに、国内販売台数は3万1333台にとどまった。発売期間は足掛け9年に及んだから、平均すると年間3000台ちょっと。月間だと300台にも届かず、モデル後半は2ケタ続きだったのだから、それだけで充分「珍」車の部類に入る。
しかし、上には上がいる。そのiQをベースに、アストンマーティンが発売した「シグネット」は、ケタはずれの珍車である。なにしろ、3年間でたったの150台弱しか売れなかった。この数字、日本国内のみではない。全世界合計してのものだ。
登場当時は、「シグネットは、本物のアストンマーティンのオーナーでないと注文できない。なぜなら、本物のアストンのセカンドカーとして開発されたからである」という、まことしやかな噂が流れたが、まったくの噂にすぎなかった。実際は世界中のアストンディーラーで、誰でも注文が可能だった。それでも全世界でたったの150台弱しか売れなかった。
この数字は、少量生産の高級車メーカー・アストンマーティンゆえでもない。なぜならアストンマーティン本社は、当初シグネットを、年間4000台販売する予定でいたからだ。
■販売台数がわずか150台弱だった理由とは?
シグネットは、iQの完成車の内外装をバラし、専用ボディパネルを装着した上に、アストンマーティン品質の高級でエレガントな内装を施すという、非常に手間のかかる工程を必要としたが、とにかく年間4000台売ろうとしていたのだから、アストン側の期待は大きかったはずだ。
ところが、フタを開ければ想像を絶する販売不振。わずか3年で生産は打ち切られた。この150台弱という数字、歴代のアストンマーティンの名車たちとも、十二分に対抗できる少なさである。
たとえば、初代ボンドカーとして全人類的に有名なDB5の生産台数は1023台。シグネットに比べたらはるかにありふれて(?)いる。150台弱という数字は、フェラーリF40の1311台はもちろん、フェラーリF50の349台よりもずっと少ない。
アストンマーティンの現行V8ヴァンテージは、クーペ/ロードスターを合計すると、通算2万台以上売れている。2000万円級のヴァンテージがそれだけ売れるのだから、500万円級のシグネットは、年間4000台売れてもらわなくては困る……と思うのも当然か。
当時シグネットは、「アストンのCO2薄め液」と言われた。大排気量マルチシリンダー車のみのアストンマーティンは、1台当たりのCO2排出量が非常に多い。徐々に厳しくなる欧州のCO2規制に対応するため、燃費のいいシグネットを大量に販売し、薄め液にするつもりだろうと観測されたのだ。
ところが、薄め液どころか、原液の100分の1レベルしか売れなかったのだから、何をか言わんや。世の中、計算どおりには行かないものだ。
シグネットの価格は、日本国内で475万円~490万円。この価格、アストンマーティンとしては破格に安い。ただしベース車両のトヨタiQは、129万円~178万円で買えた。およそ3倍の価格差だ。
すべてがアストンマーティンのオリジナルならともかく、iQに化粧を施しただけで500万円はないだろう……と、世界中のユーザーは判断したのである。結果的にシグネットは、1960年代のクラシックアストンを上回る珍車となってしまった。
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