1998年に登場し、同年の日本カーオブザイヤー(COTY)に輝いたアルテッツァ。コンパクトボディにFRレイアウトのセダンに対して、当時の自動車媒体は「AE86の再来」と記している。
振り返ってみればわずか約8年、1世代で消滅してしまったアルテッツァだが、今あらためて見ると、よいところが多い。なぜ当時アルテッツァがウケなかったのか、アルテッツァが遺したものは何だったのか、令和の今振り返る。
文:佐々木 亘
画像:TOYOTA
■正統派FRセダンだったのに
アルテッツァは、全長4,400mm、全幅は1,720mmと欧州セダンも意識したボディサイズに、当時の自然吸気の2リッターエンジンとして、最高出力となる210馬力を発生する3S-GE型エンジンを搭載した。「操ることが、こんなに楽しい」と、スポーツセダンを全面に押し出し、登場したクルマだ。
当時は既に、セダン人気が下火になっている頃。アルテッツァは、若年層向けのクルマが多かったネッツ店で専売され、FRスポーツセダンの再燃を託されたクルマでもあった。
フロントグリルやトランクリッド、ステアリングホイールなど、そこにあるべきトヨタのCIは、ほとんど取り除かれ、パッと見た限りでは、どこのメーカーのクルマかわからない。
少々古臭さがあった、当時のトヨタっぽさを徹底的に排除し、純粋にセダン復権をかけて作られたアルテッツァ。特徴的な、クロノグラフをモチーフにしたスピードメーターからは、新鮮さが感じられる。
また、ショートボディと、素直なサスペンションセッティングで、小気味いいハンドリングを体感できる素直なスポーツセダンだった。十分な運動性能を確保しながら、大人4人がしっかりと座れる居住スペースも用意し、セダンとしての機能性も高い。
アルテッツァは今見ても、セダンとして完成されていたクルマだったと思う。この正統派セダンが、なぜ短命に終わったのか。当時を知る営業マンの話から、アルテッツァに課せられた様々な使命が見えてきた。
■たった数年でエントリースポーツセダンが高級セダンに変化
生産台数は約8年間で11万台を超える。アルテッツァは、極端に売れなかったクルマではない。
当時の販売状況を知るベテラン営業マンは、アルテッツァがマイナーチェンジや一部改良を繰り返すたびに、ユーザー層が大きく変わったと話す。
初代モデルの車両本体価格は、エントリーグレード(RS200)で207万円、最上級グレード(Z エディション)でも254万円だった。これが、最終型になると、224万7000円~312万3,750円と大幅に値上がりする。新入社員がなんとか頑張ってローンを組み、購入できたクルマが、数年後にはナイスミドルが求める上級セダンになってしまったのだ。
発売当初は20代~30代前半のユーザーと商談することが多かったが、時が経つごとに年齢層は上がり、最終的にはクラウンやマークXを購入しても違和感のない層が、購入ユーザーの中心になったという。
そこにはAE86の再来というイメージは無く、アリストに次ぐ上級セダンが鎮座していた。
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