2014年11月に逝去した自動車評論家、徳大寺 有恒。ベストカーが今あるのも氏の活躍があってこそだが、ここでは2013年の本誌企画「俺と疾れ!!」をご紹介する。(本稿は『ベストカー』2013年7月10日号に掲載したものを再編集したものです/著作権上の観点から質問いただいた方の文面は非掲載とし、それに合わせて適宜修正しています)。
■戦争と自動車を振り返る
戦後、開花した自動車の技術はどこから生まれたのか? それは先の戦争に勝つためのものから生まれた。人命よりも国家の勝利を願う。
それが戦争だが、第二次大戦の敗戦ですべてがひっくり返ってしまった。敗因は何しろ資源がないことで、長期戦はできなかったのだ。
第二次大戦の敗戦により日本は戦争のできない国になった。しかし、70年近い平和によってまたぞろ戦いをしたいのかと思える向きも見えるようになってきた。
現総理は高い支持率を得ているが、憲法改正に積極的だ。
もちろん政治信条は右でも左でもいいのであるが、子どもながらにも戦争を体験したものにとって、少し左がかったほうが安心する。
むろん、複雑な世界情勢を考えると、左では弱腰の批判もあろう。いずれにしても政治家は何より弱者の味方であらねばならない。強者、金持ちは政治家に向かないと思っている。
昨年(※2012年)の衆院選で自民党が圧勝したが、今年の参院選はどうだろう。どの党が勝つにしても参院は党派にこだわらず、衆院とは違う選択を見せてほしい。いわゆる是々非々ということだ。
日本は68年前に敗戦の憂き目にあった。それは政治の問題ではなく日本独特の国家主義のせいであった。そのことを肝に銘じなければならない。
勝った、勝ったと騒ぎ立てる新聞を含めた、国民の中で冷静でいる人間がいなかった。いたとしてもその声は打ち消され声にならなかった。あまり声高に騒ぐと非国民というレッテルを貼られた。
敗戦の昭和20年、当時私は6歳であった。敗戦直後は米ソが対立していた時である。アメリカは自由を標榜する民主国家のリーダーで、ソビエト連邦は共産主義国家の代表だった。この米ソ対立は冷戦構造を生み出し、日本はアメリカの同盟国として自由主義陣営の一翼をになった。
当時中国はまだ強国ではなく、共産主義国家として進み、アメリカはソ連とともに中国とも対立を深めていく。
そんな東西が左右に分かれていた時代に私は高校、大学に進んだのである。私が大学時代に安保闘争が起き、学生たちは連日国会の周りに集まり“安保反対”を叫んだ。
多くの大学では学生がピケを張り、授業どころではなくなっていた。未成年の若者たちは学業を捨てて学生運動に邁進した。
当の私は平和そのものの成城大学に通っていて、なんの問題もなかった。あの頃は毎日、新橋、赤坂をほっつき歩いて当時のアメ車やごく少数のヨーロッパ車を追いかけた。
当時の想い出のクルマを1台挙げるとすると、当時赤坂にあった日英自動車に時々グリーンの全長4.5mくらいのクルマが置いてあった。ランチェスター“レダ”である。
ランチェスターは当時のイギリスの小型車で“レダ”は小型車ながら“超”のつく高級車だった。日英自動車はディムラーストレートエイトが時折入っていたが、このクルマは今上天皇が皇太子の時のクルマで、外遊中に入手されたものであった。
このクルマは完全なオーダーメードでフーパー製のセブンパッセンジャーリムジンだった。同じクルマをホテルニューオータニのオーナーだった大谷米太郎氏が買い求め、時折走っていたことを思い出す。
話は第二次大戦の頃のエンジン技術に戻る。日本には零戦の三菱重工業、隼、疾風の中島飛行機、飛燕の川崎航空機、紫電改の川西航空機といった航空機会社があった。
当時の日本はマルチシリンダーエンジンを開発できず、シリンダーを放射状にレイアウトした星形エンジンだった。水冷エンジンではなく、空冷エンジンだった。
空冷エンジンは機構がシンプルで整備が容易、被弾にも強かったことなどが挙げられるが、技術力がなかったことは否めない。
第二次大戦では唯一飛燕が水冷エンジンを採用したが、これは同盟国だったドイツのダイムラーベンツのものだった。
星形エンジン採用機はシリンダーが丸見えだが、イギリスのスピットファイアやドイツのメッサーシュミット、アメリカのP51マスタングなど水冷のV12エンジンを搭載したものは、先端が流麗でスマートな機体をもっていた。
戦闘機同士の戦いでも、戦いが長期化するにつれて厳しい戦いになっていくが、長距離を飛べる爆撃機などは作れなかった。航空機の技術がそれほど違ったのだから、負けるべくして負けたといえるかもしれない。
ただ、その技術は戦後自動車作りに生かされることになったのは幸いだった。
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