マツダ100周年 個性派ゆえの「成功と失敗」 異端児だからこそ挫折もあった


ロータリーの逆風と倒産危機救った“赤いファミリア”

5代目ファミリア。マツダの危機を救った“赤いファミリア”として名高い。その後、約30年の時を経て再び「赤=ソウルレッド」がマツダのイメージカラーとなる

 その後、ロータリーエンジン搭載車を積極的に送り出していくが、1970年代になると厳しい排ガス規制に加え、2度のオイルショックに見舞われた。

 燃費の悪いロータリーエンジンは海外で「ガスイーター」の汚名をきせられ、販売は低迷。再び倒産の危機に見舞われた。

 だが、マツダの首脳陣とエンジニアはロータリーを捨てることはできない。「技術で叩かれたものは技術で返す」と発奮し、クリーン化とともに希薄燃焼方式の6PIによって大幅な燃費改善を成し遂げたのである。

 この時期にプレミアムスポーツクーペの「コスモAP」と「サバンナRX-7」を投入したが、この2車は新たなファン層の開拓に大きく貢献した。

ロータリーエンジン車として新たな境地を切り開いたサバンナRX-7は代替わりを経て、2002年まで販売された(写真は最終型となったFD型)

 そして、1980年にはFF方式に転換した「ファミリアXG」が大ヒット。日本の景色を変えるほどの売れ行きを見せ、東洋工業を黒字へと導いている。

 また、経営基盤を確固たるものにするために、1979年秋にアメリカのフォードと資本提携を結び、1981年にはフォードブランドを扱う「オートラマ」を立ち上げた。1984年5月、社名を東洋工業から「マツダ」に変更し、新たなスタートを切っている。

マツダを危機に陥れた多チャンネル化の失敗

1990年、5チャネル化に伴って誕生したオートザム・レビュー。オートザム店の専売車として気を吐いたが、後に車名をマツダ・レビューと改め、1997年に生産終了

 この時期には韓国の起亜に資本参加し、北米や台湾で現地生産を開始。積極的に海外事業を拡張し、新しいブランドやバリエーションも大幅に増やしている。余勢を駆って1989年には国内販売チャネルの大改革を断行し、5チャネル体制を敷いた。

 「アンフィニ」や「ユーノス」、「オートザム」などが相次いで誕生したから、新ブランドだけでなく兄弟車も矢継ぎ早に送り込んだ。

 が、車種を広げすぎたため研究開発費や販売店の経費がかさむようになり、経営を圧迫した。これにバブルの崩壊が追い打ちをかけ、マツダは再び経営危機に陥ったのである。

初代ユーノス・ロードスター。クルマとしては大ヒットしたが、ユーノスブランドは後に消滅し、現在はマツダ・ロードスターとして4代目に移行

 堪えきれず、1996年にはフォード傘下に収まり、またもやマツダは冬の時代を迎えた。この危機を救ったのが、実用性に優れたハイトワゴンの「デミオ」やミニバンの「ボンゴフレンディ」だ。ドライバーズミニバンのプレマシーも人気を博し、マツダは活気を取り戻している。

 そして2002年4月、マツダは「Zoom-Zoom」のブランドメッセージを発信し、環境性能と安全性能を高いレベルまで引き上げながら、持続可能(サスティナブル)な未来の実現に向けて動き出した。

 すべての人に「走る歓び」と「優れた環境・安全性能」を提供するために発表したのが「SKYACTIV」テクノロジーだ。マツダはクルマの基本となる技術のすべてをゼロから見直し、常識を覆す技術革新によって世界一を目指した。

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