道はついに舗装路から砂利道へ
キャンプ場を過ぎると、道は再び急激に細くなり対向車とすれ違うどころか、1台しか進めない幅となった。さらに道路脇には「冬期通行止め」の看板と封鎖用のゲートも設けられ、いよいよ点線国道の迫りを感じさせた。
やはり、通行量が限られるらしく、道路上には落ち葉や木の枝などが散見させるように。また道自体も上りが続き、さらにブランドコーナーが多くなってきた。
道幅が細く、ガードレールさえない区間もあるため、対向車の出現やUターンを考慮し、コーナー先を徒歩で確かめながら、車を進めた。
回り込むようなコーナーに出くわすたびに「ここまでか」と思いつつ、車を降りて、歩みを進めると、意外にも先に進めてしまう。
そんなことを繰り返して15分程進むと、ついに路面は舗装路から砂利道へと切り替わった。道の傾斜もきつくなったが、路面状態はさほど悪くなく、山並みにへばりつく様な道路を進む。
ついに終着点到着! ここが点線国道の始まりだ!!
そこから7分くらい進むと、急に道が開けた、というか広い河川敷に出た。その先に目を向けると、ブルドーザーが道を均した跡があり、どうやらここがゴール。つまり、ここが「点線国道」の始まりというわけだ。
ただ、点線国道は、道自体は存在するというが、152号線については、獣道に近い様子。ここが車で通れる最終地点となる。
マップで測ると冬季通行止めとなる区間の全長は1.2kmほど。このまま河川敷を進めば地蔵峠の側の152号へとアクセスできるようだった。
車道がここで止まった理由は? 背景に潜む歴史ロマン
しかし、152号線は、この地点から点線国道となっているのだろうか。
この区間を管理する長野県飯田建設事務所に問い合わせてみると、国の道路計画については不明とのことだが、道路自体は、1970年に国から長野県へ管理が移管された当時のままで、道路の延長は行っていないという。
今でも週に一度、道路パトロールを行っているそうだが、「今まで対向車に出くわした経験はない」とのこと。つまり、この道路を走る車はほとんどいない。また「徒歩を含め、利用者は釣り人くらいに限られるようだ」とも教えてくれた。
そんな国道152号の歴史を振り返ると、なんと縄文時代から信州に太平洋側から塩を運ぶ「塩の道」として活用されてきたという。
戦国時代には、武田信玄が上洛(この時代は京都)を目指し、進軍した街道でもあった。つまり、この地の人々の生活と結びつきの強い道路だったのだ。
それが国道として道路計画に含まれたが、山間部を自動車が通り抜けるため道路として作り上げることが困難だと判断され、当時の技術で可能な部分までが自動車の通行可能な道路として整備され、そのまま現在に至るということのようだ。
現在は、先にも述べたが、その先には林道を使えばアクセスが可能なため、道路計画が進むことがはなく、より広域を早く結ぶ三遠南進自動車道の計画が進められている。
点線国道の背景には、このような歴史ロマンも潜む。
実際に出向いてみる冒険も魅力だが、その背景を調べる面白さがあるのも点線国道の奥深さといえるだろう。
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