東洋からの“挑戦者”に立ちはだかった壁
欧州時代の佐藤選手は、F3、F1時代を通して一発の速さは備えていた。
だが、特にF1に乗ってからは、焦りからと思える無駄な接触やクラッシュが目立ち、F1初心者にありがちな勢いだけでパスしようとする、冷静さを欠いたドライビングで自滅することもあった。
だが、ジョーダン、BAR、スーパーアグリのマシンでは、多少の無理を承知で走らなければ上位を狙えない、それが現実だったこともまた、確かだった。
佐藤選手が勝てるチーム、勝てるマシンに乗っていたら、彼のF1でのドライビングスタイルもリザルトも当然違っていたと思う。
2004年、ミシュランタイヤへのスイッチを2年がかりでようやく実現させたBARが、チーム、マシンと揃って最もよい状態だったあのシーズン、レギュラードライバーに昇格した佐藤選手が第9戦アメリカGP(奇しくも場所はインディ500の舞台インディアナポリス・モータースピードウェイだったが、コースはオーバル区間の一部とインフィールドエリアを組み合わせたグランプリコース)で3位となった。
その時、私が感じたのは、佐藤選手がF1初にして唯一となった表彰台に登った喜びよりも、彼が勝てるチーム、勝てるマシンで走っていたら、優勝も王座も狙えるドライバーなのに、という口惜しさだった。
東洋からの挑戦者に対して、F1界は決して甘くない。
ヨーロッパに本拠を置くF1のトップチームが東洋人をナンバー1ドライバーとして起用するなど、私には夢物語としか思えない。
ナンバー2ならあるかもしれないが、それだって能力や資金力が同程度の欧州系ドライバーがいたら、チームは迷わずそちらを選ぶ。それがF1の現実なのだ。
残念ながら、佐藤選手には同時代に王座を欲しいままにしたミハエル・シューマッハのようなインパクトと政治力(マネージメントや資金)はなかった。
彼に付帯していたのはホンダとの関係のみだった。SRSからいまに至るまで、すべてホンダエンジンで走ってきた生粋のホンダ・ドライバーである佐藤選手がF1で勝つためには、ホンダ自身がチーム体制、マシン、エンジンのすべてにおいて勝てる力を持っていることが必須だった、というのが私の見解だ。
このことについて、佐藤選手自身がどう思っていたのか、私は今だ本人に尋ねたことはない。聞く必要のない質問だと、いまでも思っている。
米国に渡った琢磨に感じたF1時代との違い
佐藤選手がインディ500で優勝できた理由はいろいろ挙げられるが、アンドレッティ・オートスポーツというトップチームに移籍し、勝てるマシンを手に入れたことは絶対に外せない。
インディカーシリーズにおけるホンダエンジンは、F1のように非力ではなく、また複数の優秀なドライバーを抱えるアンドレッティにとっても、シリーズで唯一の日本人として、またエキサイティングでポピュラーなドライバーとして、すでに地位を確立している佐藤選手の加入は、優秀なコマを増やす意味でも大歓迎だったはずだ。
佐藤選手がまだAJフォイトレーシングに在籍していた頃、ミッドオハイオへ取材に行ったことがある。
インディ500と同じシリーズ戦とは思えない、周りには広大なジャガイモやトウモロコシ畑しかない超ド田舎の、路面のうねりまくったコースでの一戦は、大相撲でいえば『地方巡業』という雰囲気。
しかしレースはインディ500と同様、エキサイティングな競り合いがここかしこで見られる、とてもハイレベルな内容だった。
佐藤選手はマシンもイマイチ、セッティングもスパっとは決まらず苦戦を強いられていたのだが、その表情に暗さはなかった。
「いやー、大変です!」と言いつつ、その大変ささえも楽しんでいるように思えた。
F1の最後の数年、常に奥歯に何かを挟んでいるような表情で当たり障りのない話をしていた頃とは大違いの様子に、私が「アメリカに来て良かったね」というと、佐藤選手は一瞬、何の話かわからないという表情を浮かべたが、すぐにちょっと笑って軽く頷いた。
「大変は大変ですよ(笑)。でも、そうですね。その通りかもしれません」。
そしていま、もし同じ質問をしたら、佐藤選手はきっと大きく相槌を打ちながら笑顔でこう答えてくれるに違いない。
「本当にその通りでした!!」と。
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