モータースポーツの最高峰F1が日本でも毎年開催されているが、日本グランプリとして定着したのは鈴鹿サーキットの存在が大きい。
鈴鹿でF1が初開催されたのが1987年だから今年で30周年。そして鈴鹿でのF1日本グランプリは、今年で30回目の記念イヤーになる(’07~’08は富士スピードウェイにて開催)。
そこで1987年から皆勤賞(1987年は観戦)で日本グランプリの撮影をしているカメラマン、池之平昌信氏に名レースを振り返ってもらった。どのお客さんよりも近くで闘いを見てきたカメラマンが選ぶ名レースはいかに!?
文/写真:池之平昌信
■F1日本グランプリ名レース ’80年代~’90年代編
私イケノヒラがシティターボに車中泊して鈴鹿のF1日本グランプリを観戦した1987年から、あ~30年。自分の昔話をしたらキリがないので・・・皆勤賞カメラマン・イケノヒラが選ぶ名シーン、5グランプリは以下のとうりだ!
【1989セナ・プロ激突大波乱GP】
→この時代、マクラーレン・ホンダに在籍したアイルトン・セナとアラン・プロスト。1988年には16戦中15勝という最強時代を築いたタッグだったが、同年のポルトガルグランプリでセナがプロストに幅寄せしたことがキッカケで関係が悪化。最強タッグの歯車が徐々に狂い始めた(編集部)。
F1って「負けず嫌い世界選手権」なんだね、と認識させられたレースだった。「あそこでしかけるしかなかった(アイルトン・セナ)」。
それに対して「シケイン不通過だから失格にしてよ」とFIA(世界自動車連盟)の偉いヒト(J・M・バレストル)に告げ口したアラン・プロスト(フランス人どうし仲良しだった)。
もう単なるレーシングアクシデントではなくなり、失格裁定、控訴、抗議、再処分・・・とドロ沼化。政治的な大問題にまで発展した。
さらにそれだけでハナシは収まらず、翌年の日本GPスタートの1コーナーで命をかけたような故意の激突事故にまで発展してしまう。
シーズン終盤開催の日本GPは年間王者決定レースとなることも多い。それゆえの「大事件」だったのだ。
【1991 ありがとう中嶋さんGP】
→日本人としては初めてのフルタイムF1ドライバーとなった中嶋悟。雨天時のマシンコントロールの凄まじさから「雨の中嶋」の愛称もあり、粘り強い走りは「納豆走法」ともいわれている。1991年はすでに引退を決意しており、いわばこのレースが最後のF1日本グランプリとなった。その応援たるや凄まじいものに(編集部)。
他国のGPに比べ、日本のF1ファンは、幅広く応援するのが特徴だと思う。観客席はフェラーリの旗やごひいき外国人ドライバーの国旗(フィンランド、ブラジル、英国など)多彩だ。
優しい、おもてなしの心があるんだね? よって諸外国F1関係者からは高評価を得ている。
しかし、この年ばかりは、PIAAの配った日の丸調のナカジマ応援旗がコースを埋め尽くした。中嶋悟さん(ティレル・ホンダ)の走行に沿ってコースサイドに歓声がこだまする。しかも毎ラップ。
結局納豆走法むなしくサスペンショントラブルでリタイアという結果に終わり、歓声が悲鳴に変わったが、それも含めて14万人の観客!がひとつになれた貴重なGPだったと思う。
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