「氷川丸」といえば、引退から60年以上が過ぎた今も港町ヨコハマを見守り続けるだけでなく、国の重要文化財に指定されるまでに成熟を遂げた、横浜を代表するシンボリックな存在だ。
文・写真(特記以外):中山修一
(バスマガジンWeb/ベストカーWebギャラリー内に、氷川丸 vs. 同世代の各種公共交通機関の写真があります)
■日本とアメリカを繋いだ国際航路の貨客船
横浜の「氷川丸」は、もともと日本とアメリカを結ぶ国際航路で使用するため、既に就航していた旧式の船を置き換える形で1930年に登場した。
12,000tクラス、全長163.3m、幅20.1m、5,500馬力のディーゼルエンジンを2基搭載し、最大速力18ノット(約33.3km/h)、航海速力16ノット(約29.6km/h)のスペックを持っていた。
貨物/旅客両方に対応した貨客船で、客室には1〜3等まで用意され、合計286名の乗客を乗せて営業運航できた。荒れやすい海域を通るため、船体が軍艦と同等の頑丈さで作られていたと言われる。
1930年10月現在の時刻表準拠で、香港〜上海〜門司〜神戸〜横浜〜ビクトリア〜シアトル間の航路を担当。
1934年11月現在では、神戸〜清水〜横浜〜バンクーバー〜シアトル間に区間が変わっており、行きが15日で帰りが17日くらいの所要日数だったようだ。
氷川丸の最も象徴的な区間といえば横浜〜シアトル間で、こちらは距離8,195km、行き12日・帰り14日の行程が組まれていた。
1941年に戦争の影響により病院船として徴用。戦後の1953年から横浜〜シアトル航路に復帰して、横浜〜シアトル〜バンクーバー間の運行を担った。かかる日数は1934年当時とほぼ同じだった模様。
飛行機による長距離国際線が台頭してきた1960年に氷川丸は引退。その後縁の深い横浜港内に係留され、今日もその姿を留めている。
特に大きな事故を起こさず、病院船時代に機銃掃射や触雷の憂き目に遭うも沈没には至らず、引退後もスクラップにされることなく、重要文化財の肩書きを手に入れるまでに至ったという点で、驚異的な運に恵まれているのも氷川丸の誇れるところだ。
■確かに古い船ではあるけれど……
そんな氷川丸、60年以上も同じ場所にいて、様子がそれほど変わらない(昔はちょっとハデな色に塗られていたけど)顔馴染みのような存在になって久しい。
日常に溶け込み、よく目にするものほど、古くてもあまり古さを感じないことがあると思うが、氷川丸もまた、大昔に作られた船だとは理解していても、実際その「大昔」の度合いを実感できる瞬間というのも中々掴めないような気がする。
そこで今回は、氷川丸が竣工した1930年の時点で存在していた、同世代の各種公共交通機関と比べ、氷川丸が実際どれくらい古い時代の船だったのかを測りつつイメージしてみたい。
■1930年当時の電車
まずは電車ほか鉄道から見てみると、1930年頃の日本は戦前の鉄道黄金期といえる頃合い。近場の移動には電気で動く電車、長距離を走るものは機関車が牽引する客車列車がほとんどだった。
氷川丸と同時期に登場した国鉄系の車両の例に、C10形蒸気機関車(1930)、C53形蒸気機関車(1928〜30)、EF52形電気機関車(1928〜31)、31系電車(1929〜31)などがある。
蒸気機関車全盛で、電気機関車はようやく純国産のものが出始めた頃。電車や客車はこげ茶色(ぶどう色)1色のものが主流で、車両の様相は今と全く異なる。
列車の運用面では、1930年に特急「燕」が運転を開始している。東京〜神戸間を最高速度95km/h・9時間で結ぶもので、東京を朝9:00に出発して神戸に18:00に着くダイヤだった。当時としてはかなり高速な部類に入り、超特急とも呼ばれていた。






