長年忘れられていたイモラで再びF1が開催されるようになった。このおかげでオールドファンは開催の度に、タンブレロに消えたセナの事を思い出す。各国のテレビ放送でもイモラのレースで必ずセナの話が出ては、セナを知らない若い世代に伝説の英雄を語り続けている。セナ伝説の多くはもちろんその天才性であり、その天性の速さである。そんなセナを見てきた元F1メカニックの津川哲夫氏に、在りし日のセナを語ってもらった。
文/津川哲夫
写真/池之平昌信
セナの強い個性はデビュー当時から遺憾なく発揮した
ワールドチャンピオンになるドライバーはかなりキャラクタリスティック(個性的)でファン側から見ればその個性はきわめて魅力的なのだが、逆にライバル側のファンからみれば、それはそれは嫌な奴だと感じてしまうだろう。
セナの強い個性は彼のデビュー時から遺憾なく発揮されていた。そもそもチームとの契約からして、いきなりワールドチャンピオン獲得を絶対目標として動き出していたのだ。契約交渉時にはまだF1のルーキーにさえなっていなかったのに。
そしてセナの天賦の才は広くF1界に知れ渡っていて、トップチームを含めて複数のチームが彼のF1デビューチームとしてのオファーを出していた。
ではなぜセナはウィリアムズやブラバムを選ばなかったのだろうか。当時のこれらのチームは優勝にもっとも近かったはずなのに。
当時最終的にセナとの契約を射止めたのはトールマンであった
1984年シーズンはセナのセンセーショナルなデビュー年であったのに、後世に語り継がれたセナの話のほとんどがマクラーレン時代、セナ・プロスト時代の話である。もちろんそのマクラーレンでワールドチャンピオンを3回も獲得しているのだから当然と言えば当然なのだが。
当時のトールマンのボス、アレックス・ホークリッジは「セナの望んだ契約はチームでのナンバーワン待遇であった」と語っている。まだ一戦も走っていない新人にトップクラスチームのどこがナンバーワンのステータスを与えるだろうか? もちろんセナへオファーしていた全チームが、セナのこの要求を拒否したのは当然だ。しかしトールマンのホークリッジだけはこれを受け入れたのだ。
「セナの才能は絶対的なものだった」とホークリッジは回顧する。そして「新興トールマンチームにはこういったインパクトも必要だったのだ」と本音も語る。
まだ一戦もF1を走ったことのない若造が、いきなりナンバーワンドライバーのステータスを要求するなど、それまでのF1の歴史にはあり得なかったし、これは現在のF1でももちろんあり得ない話なのだ。
セナはF1デビュー前から既に勝利のための全てを得ようとしていたのだ。
アランからのプレッシャーが凄い。しかし僕にとってはすごくポジティブなプレッシャーだ
セナのデビューイヤー、南アフリカ・キャラミでのグランプリ初ポイント獲得時には、セナの凄まじい勝利への執念を見せつけられた。デビュー初ポイント獲得に喜びもせずに「その結果には意味はあるが、望んでいる結果ではない」と言い切ったのだ。そして後にも、彼の強い自意識がにじみ出る状況に筆者は遭遇している。
84年にセナがデビュー初ポイントを獲得したそのキャラミで、9年後の93年開幕戦ではその自意識の強さ、“勝つこと以外は他の何も存在せず、自分の勝利だけが全てである”といった彼の意識の根幹を垣間見ることができた。
なかでも印象的なのが、88年に初めてマクラーレンでアラン・プロストと組んだ時のセナの様子だ。「アランからのプレッシャーが凄い、でもこのプレッシャーは僕にとってはすごくポジティブなプレッシャーなのだ!」と、セナがブラジルのリオのガレージに遊びに来ていた時、まるで自分に言い聞かせるように、そしてプレッシャーを跳ね返すように語っていた。その時、セナは既に優勝経験もありトップドライバーの一員になっていたが、そこにはまだ新人の様な初々しささえ筆者には感じられた。
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