スポーツの世界では、あまり期待されていなかった新人が思わぬ活躍をみせることがあるが、似たようなことはクルマの世界でも。発売前の評価はイマイチだったものの、思わぬ大ヒットとなったクルマ4台を振り返ってみよう。
文/井澤利昭、写真/スズキ、トヨタ、ホンダ、マツダ、CarWp.com
【画像ギャラリー】出したら一転! 大ヒットとなったクルマをもっと見る(13枚)画像ギャラリー■業績が低迷していたホンダを救う大ヒットに!「初代 ホンダ オデッセイ」
屋外でのレジャーに適したミニバンやステーションワゴンなどの人気の高まりを受け、1980年代後半頃から盛り上がりを見せ始めたいわゆる「RVブーム」。
当時、セダンやクーペ以外の車種展開がほぼなく、このブームに乗り遅れたこともあって業績が低迷していたホンダが社運を賭け、満を持して1994年にリリースしたのが初代オデッセイだ。
とはいえ、新たなRVを開発するために多くのコストや時間をかけることはできず、アコードのプラットフォームを用いることでその問題を解決し、なんとか発売にまでこぎつけたというのが実情。
ミニバンといえば背が高く、スライドドアを採用したキャブオーバースタイルのワンボックスが当たり前という時代。
その常識から大きく外れた低ルーフミニバンという異色ともいえるスタイルは、多くの人から「こんな中途半端なクルマが売れるのか?」と疑問の声があがった。
ところが蓋を開けてみれば、ボンネット内にエンジンを収めたFFだからこそ実現した低床化ゆえの、見た目以上に広々とした室内空間や、2列目キャプテンシートを備えた6人乗りも設定されるといった使い勝手の良さが受け、ファミリー層を中心に予想を上回るヒットを記録。
さらにセダンベースの4輪ダブルウィッシュボーンサスペンションによる走りの良さもスポーティな印象を与え、それまでホンダのスポーツモデルを愛用していたファンからの乗り換え需要にも応える結果に。
発売当初の月販売目標台数は4000台と控えめであったが、1994年には日本カー・オブ・ザ・イヤーの特別賞、1995年にはRJCカー・オブ・ザ・イヤーにも選ばれ、その後に巻き起こる「ミニバンブーム」の火付け役ともなった。
結果的には1999年まで続くロングセラーとなり、その後2代目へとバトンタッチ。最終的な新車登録台数の累計も43万台以上を記録し、その前評判とは裏腹に、低迷していたホンダの経営を立て直すほどの救世主となった。
【画像ギャラリー】出したら一転! 大ヒットとなったクルマをもっと見る(13枚)画像ギャラリー■当時の若者のステータスであった元祖ハイソカー「初代 トヨタ ソアラ 」
日本車がすでに海外市場でも高い評価を受けていた1970年代。
とはいえ、それは小型の大衆車に限った話で、日本では高級車とされたクラウンやセドリックですら、海外では非力でコンパクトな大衆車として扱われていた。
そんな評価を覆す世界で通用する高級車を目標として開発が進められ、1981年に登場したのが“スーパーグランツーリスモ”初代ソアラだ。
美しいロングノーズ&ショートデッキの2ドアノッチバッククーペのボディには、従来のモデルと比較して大きく明度を高めた「スーパーホワイト」のカラーも用意され、2.8LのGTエクストラを筆頭にすべてのグレードで直列6気筒エンジンを搭載。
デジタル表示のスピードメーターにLEDのタコメーターを組み合せた国産車初のエレクトロニックディスプレイメーター、デジタル式任意速度警報装置、タッチパネルで操作できるマイコン制御のオートエアコンなど、当時の最先端の装備が惜しみなく投入され、まさにそのキャッチコピーである「未体験ゾーンへ。」を体現するものであった。
その美しいスタイルと未来を感じさせるさまざまな装備は、当時の若者たちの憧れの存在となり、その後訪れるバブル景気の兆しとも相まって、ソアラに乗ることが一種のステータスとなるまでに。
いっぽうで、そのターゲットとして当初想定された経済的に余裕のあるシルバー世代からは、大柄なボディや2ドアクーペならではの不便さが敬遠され、当初考えられていた海外展開も、兄弟車であるセリカXX(スープラ)との差別化が図れないなどの理由で実現することはなかった。
メーカーが考えた目論見からは外れたものの、後に言われる「ハイソカー」ブームをけん引した一台として、初代ソアラは、今なお多くの“当時の若者”の記憶に鮮明に残っている。
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