2021年6月12日、日産は一部新聞による、「スカイラインの国内生産中止」報道を受けて、日産の星野朝子副社長が「日産はスカイラインを決してあきらめない」と発言、大きな注目を集めた。
そこで、R30型、R31型、R32型GT-R、R34GT-R、V36型の歴代モデルを所有してきた、スカイライン党であるモータージャーナリストの西川淳氏に、改めてなぜスカイラインは衰退していったのか? 歴代スカイラインとの想い出とともに今後スカイラインはどうあるべきか、語ってもらった。
文/西川淳
写真/日産自動車、ベストカー編集部、西川淳
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■R31、R30、R32GT-R、R34GT-R、V36と歴代スカイラインを乗り継いだモータージャーナリスト 西川淳氏
父親は免許を持たない主義の人で、「道は人のためにあるのだよ」などと何やら哲学じみて語るくらいの人だった。にもかかわらずボクがクルマ好きになったのは、叔父たちがかなりの好き者だったせい、否、おかげだ。
サニーやセリカに乗って幼稚園まで迎えにきてくれたのも叔父なら、免許を取って初めて運転したスカイラインジャパンも別の叔父の大事な愛車だった。
クルマのない家庭は何かと不便だったに違いない。母が急に免許を取ると言い出したのはボクが小学6年の頃で、実家から一番近いディーラーだった日産から営業マンに勧められるがままバイオレットを買った。
父が徳大寺先生の本を買ってきて、バイオレットへの専門家の評価が悪いことを知り、憤っていたのを覚えている。その後、ボクはラングレーへの乗り換えを勧めた。とにかくスカイラインを売っているプリンスの店に行きたかったのだ。
昭和40年男の例に漏れずスーパーカー小僧だったけれど、叔父たちが好んで乗っていたスカイラインやセリカもお気に入りのクルマだった。よく絵を描いた記憶があるしプラモデルもたくさん作った。
そして新型車フェアがあるたびに母の駆るラングレーでプリンス店へ遊びに行くようになって、ボクのスカイライン好きは次第にクルマ人生の土台を形成し始める。
最初に買ったクルマはトヨタ党の叔父が店巡りなどを手伝ってくれたこともあって中古のセリカXX(A60)だったが、2台目で晴れてスカイラインオーナーに。「エリーゼのために」をBGMに使ったR31型スカイラインクーペの“その時、精悍。”(GTオートスポイラー)のテレビコマーシャルにノックアウトされたようなものだった。
こうしてボクのスカイラインライフはジャパンの初体験からR31、数台の“浮気”を経て憧れだったR30鉄仮面に戻り、さらにR32やR34のGT-Rに乗って、結局、V36まで続くことになる。ちなみに最後のV36だけが4ドアで、残りは全て2ドアだった。
なかでも最も大きな存在はR32である。といっても登場してすぐにオーナーになれたわけじゃない。R32が登場した1989年は社会人になってまだ2年目の頃で、学生時代ほどにはクルマに割く時間や執念も一旦はなくしてしまっていた。
しかも時代はバブル経済真っただ中。憧れのフェラーリの値段は信じられないくらいに高騰し、日産から登場したシーマやZ、そしてスカイラインGT-Rの値札も実に高かった。
人は給料をもらいはじめてやっと夢と現実の本当の格差に気づくものだ。ボクはそこで一度だけ従来からの憧れを諦めて、R32を買うことなく初めての輸入車、VWゴルフ(II)に乗っている。Zやスカイライン、もっというと日産車ではモテない時代だった。
そんな状況が、それこそ“会社人”として経験するある出来事で一変した。カーセンサーの編集部へ異動となったのだ。1991年のことだった。
ボクの編集者人生はBNR32とともにあったと言っても過言じゃない。R33が登場するまでの間はもちろんのこと、中古車雑誌ゆえに型落ちとなってからは一層、BNR32はカーセンサーにとって常に最高のネタであり続けた。
毎年読者が選ぶファン投票でもずっとBNR32が一番人気だった。結局ボクはR34時代の1999年まで編集部にいたけれど、その後も外部スタッフとしてスカイラインの記事を大量に作り続けたのだ。
R32以降のスカイラインは主だったほとんど全てのグレードを経験することができた。所有したのは後からの話だったけれど、スーパーカー人生と並行してボクのスカイライン人生はあった。記事もたくさん書いた。
編集作業はもっと多かった。関係者の知己も多く得た。自動車メディア人としての基礎を築いてくれたのは間違いなくR32スカイライン、なかでもGT-Rだった。
人生を決めたクルマなど、そうそうあるわけじゃないBNR32はそんな一台だったと思う。
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