新型コロナ流行に端を発する半導体不足などもあって苦戦が続く自動車メーカー。マツダもまた例外ではなく、過去にも危機的状況になってしまったことは何度かあった。しかし、繰り返される危機からそのたびに立ち上がり、より強いマツダとなって復活してきた。そんなマツダの“復活力”にはどんな秘密があるのか? この記事では、マツダを襲った危機とその解決方法を振り返ることで同社の復活力を考えていきたい。
文/長谷川 敦、写真/マツダ
【画像ギャラリー】マツダの強さの秘密を探る!(17枚)画像ギャラリーロータリーエンジン実用化に成功した孤高のメーカー
1920年に広島県のコルク工場としてスタートした東洋工業が、機械工業に進出して自社初の三輪トラック「マツダ号」を完成させたのが1931年。車名は当時の社長・松田重次郎にちなんでいる。そして1960年には乗用車を開発し、総合自動車メーカーへの一歩を踏み出した。
1967年には世界で初めての量産型ロータリーエンジン搭載車コスモスポーツを世に送り出した。夢のエンジンと言われながらも、実用化には多くの困難が伴ったロータリーエンジンの開発。それをいち早く成功させたマツダの技術力がこの時に証明された。
以降は数多くのロータリーエンジン搭載車をラインナップしつつ、レシプロエンジン車や軽自動車、商用車の開発・販売を行うなど、他の国内メーカーとはひと味違う存在として、東洋工業は独自の地位を築いていった。
1984年には、社名をそれまでの東洋工業からマツダに改めたが、この名は前出の松田重次郎とゾロアスター教の最高神・マズダー(Mazda)に由来している。英文字での社名表記がMatsudaではなくMazdaなのはそれが理由。
多チャンネル化失敗とバブル崩壊で最大のピンチに
1989年、マツダが選択した大胆な販売戦略が「多チャンネル化」だ。チャンネルとは販売店(ディーラー)のことで、マツダは「マツダ」「アンフィニ」「ユーノス」「オートザム」「オートラマ」の5チャンネルを展開し、自社の販売力強化を狙った。
ユーノス店からは現在まで続くヒットモデルのロードスターが生まれ、人気ロータリースポーツのRX-7はアンフィニRX-7になるなど、多チャンネル戦略はうまくいくかに思われた。しかし、ここで思わぬ災難に見舞われてしまう。それが1990年代初頭のバブル崩壊だ。
1980年代後期から90年代初期にかけて、日本は異例の好景気の中にあった。だが、この好景気は言わばまやかしで、やがて泡(バブル)のように弾けてしまった。好景気にのって販売台数を増やしていた自動車メーカーもいきなり苦境に立たされだが、マツダの受けたダメージは大きく、経営困難な状況に陥った。
好景気ではメリットもある多チャンネル戦略だが、ブランドのイメージが分散してしまうなどのデメリットもあり、各チャンネルで顧客を奪い合うといったケースも見られた。そして襲ってきたのがバブル崩壊。
この危機を乗り切るため、マツダはオートラマ店で正規代理店となっていたフォードに株式を譲渡し、その傘下に入ることになった。
コメント
コメントの使い方