「いつかはクラウン」のキャッチコピーで知られ、日本を代表する高級車として60年以上君臨してきたトヨタのクラウン。だが、近年はかつてほどの勢いがなく、シリーズ存続の危機やSUVのみへの転向もウワサされている。クラウンとはどんなクルマだったのか? 今回は、転換期に立つクラウンの歴史を振り返るとともに、社会に与えた影響なども考察していこう。
文/長谷川 敦、写真/トヨタ
【画像ギャラリー】トヨタの超エリート! クラウンの栄光の歴史を振り返る(16枚)画像ギャラリー日本の復興をけん引した功労者
第二次世界大戦終結から10年が経過した1955年、目覚ましい復興を続ける日本で歴史に残る名車が誕生した。まだまだ海外メーカーのノックダウン生産(メーカーからパーツ供給を受けて国内で組み立てる方式)も多かった国産車のなかにおいて、トヨタが作り上げた純粋な国産車がその初代トヨペット・クラウンだった。
初代の販売価格は約100万円で、当時の国内年間平均所得の10倍以上という価格の高級車として登場したトヨペット・クラウンは、1.5リッター4気筒エンジンを搭載し、乗り心地を重視してフロントサスペンションにダブルウィッシュボーン、リアにはリーフ式リジッドアクスルを採用。「王冠」の意味を持つ車名にふさわしい内容を誇る高級車であった。このクルマを買えるのは一部の富裕層や社用車目的が主だったが、再び立ち上がった日本の象徴的存在となった。
1692年には2代目クラウンが登場。初代よりもモダンなデザインのボディは、当時の小型車枠いっぱいまで拡大され、エンジンは初代型後期の1.9リッター4気筒エンジンを搭載。1965年には新開発の2リッター6気筒エンジン搭載モデルも追加されている。そしてクラウンのトレードマークである王冠を模したエンブレムはこの2代目モデルから装着されている。
大量生産車としてのフラッグシップ
数年おきのモデルチェンジを繰り返しながら、徐々に車体を拡大してエンジンもパワーアップしていったクラウンは、常にトヨタの最上級クラスの地位を保っていた。
実際は、1967年に登場したセンチュリーや、1989年から販売されたセルシオなど、車格的にクラウンより上位にくるモデルもあったが、これらはショーファー(オーナーは後部座席に乗り、お抱えの運転手が存在する)カーに使用されることが多く、1983年発売の7代目クラウンで採用されたキャッチコピーの「いつかはクラウン」でわかる通り、所得が増えたあかつきにはクラウンのオーナー運転手になりたいというのが大衆の目標にもなっていた。
この7代目モデルでは、歴代初の「アスリート」グレードが設定された。それ以前のモデルでは「スーパーサルーン」や「ロイヤルサルーン」など、高級志向の強いグレードが多かったクラウンにとって、スポーツ性を強調したアスリートの登場は新鮮な驚きをもって迎えられた。
歴代クラウンで最も売れたのは1987年の8代目。バブル景気という後押しがあったのは事実だが、1990年には24万台近い年間販売台数を記録している。これは大衆車の代表とも言うべきカローラの販売台数を上回っているのだというから驚きだ。
8代目クラウンのマイナーチェンジでは、クラウンの上位機種にあたるクラウンマジェスタ(1989年)も登場している。このモデルはクラウンとセルシオの中間に位置し、セルシオに先駆けて4リッターV8 DOHCの新開発エンジンが搭載されていた。
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