宮崎駿さんといえば日本を代表するアニメ界の巨人だが、シトロエン2CVをこよなく愛する人物としても知られる。そんな宮崎駿さんの愛車だった2CVがいま、愛知県長久手市のジブリパークに展示されている。それにしても2CVとは、なんでこんなにも人々に愛され続けるのだろう?
文:ベストカーWeb編集部/写真:ジブリパーク、シトロエン
デビューから80年近く立つクルマがいまだに人気!
宮崎駿監督と2CVとのご縁だが、1958年に公開されたルイ・マル監督のフランス映画「恋人たち」の劇中車に登場していたことがきっかけだったという。以来宮崎監督は多くの作品に2CVを登場させてきたし、ご自身の個人事務所にも「二馬力(=2CV)」と名付けている。
ジブリパークに展示されているのは、そんな宮崎監督が乗り継いでこられた2CVのうちの1台。パークではその2CVと合わせて、生まれてくる子どもの保育園の送迎のために初めてクルマ(2CV)を買い、次第にその魅力に惚れこんでいく様子を描いたオリジナルストーリー「宮崎駿の2CV物語」も展示されているというから興味深い。
そんなシトロエン2CV、発表からすでに80年近くが過ぎようというのに、いまだにバンバン走れる現役車両が数多く存在する。宮崎駿監督は、簡素で合理的な作りに文明批判を見て取ったというが、それ以外にも、2CVには愛されてやまない多くの魅力があるのだろう。
【画像ギャラリー】こんなすごいクルマもう二度と出ない! 偉大な2CVのお姿はこちら!(13枚)画像ギャラリー荒れた道を走っても積んだ卵が割れないように
そもそも2CVの誕生は、今をさかのぼること90年。フランスの田舎へバカンスに出かけたシトロエン副社長のピエール・ブーランジェが、手押し車や農耕馬などに頼っている農民たちの姿を見かけたことに始まる。1935年夏のことだ。
ブーランジェは農民のための小型車を作ることを決意し、これを「TPV(=超小型車)」と名付けた。その基本コンセプトは「こうもり傘にタイヤを付けたようなクルマ」。それほど簡素であれという例えだ。
さらにブーランジェはこのクルマに開発条件を付けた。こんなものだ。
・50kgのジャガイモまたは樽を載せて走れること
・その状態で60km/h出せること
・ガソリン3Lで100km以上走ること
・カゴ一杯の生卵を載せて荒れた農道を走行しても、卵が割れないこと
・車両重量300 kg以下
これらの条件は、技術者たちから実現不可能と言われたが、元航空技師だった名エンジニアのアンドレ・ルフェーブルは、考えられるあらゆるものを使って、その多くを満たす車体を作り上げる。ボディにはアルミの波板を使いヘッドライトは1灯だけ、サスペンションは簡素なトーションバー、駆動方式は当時の最新技術だった前輪駆動である。
【画像ギャラリー】こんなすごいクルマもう二度と出ない! 偉大な2CVのお姿はこちら!(13枚)画像ギャラリー試作車を壁の中に隠す!
こうしてTPVの開発は進行し、1939年には量産体制が整うまでになった。ところがここで不幸が襲う。第二次世界大戦が始まったのだ。1940年にはフランスがドイツに占領され、中部のヴィシーにドイツの傀儡政権が作られた。
これを受けてブーランジェは、TPVの技術をドイツに奪われないよう、すでに完成していた250台の試作車の廃棄を命じる。多くは破壊されたが何台かが技術者の手で工場の壁に埋められたり、農家の納屋に隠されたりした。いつかくる戦後のために、エンジニアは水面下で開発を続けたのだ。
そして1944年、フランスが再び開放されると努力が実際に実を結ぶ。戦禍に疲弊した国民の足としてTPVは脚光を浴び、すぐさま本格的な開発が再開されたのだ。
アルミボディは鉄に置き借られ、ヘッドライトは通常の2灯式になったものの、基本は戦前の試作車のまま。そんなTPVが「2CV」と名を変えて発売されたのは、戦後からわずか3年後の1948年のことである。
以来2CVは、その偉大な設計思想とシンプルな作りが支持を集め、なんと1990年まで生産が続けられた。以降もその姿が消え去ることはなく、いまでもフレンチブルーミーティングなどでは多くの2CVの姿を見ることができる。
「なんにもないけど、なんでもある」。2CVの世界観をひと言で表せば、そんな感じだと思う。その奥深い世界を垣間見るためにも、ジブリパークに出かけてみるのは悪くないかもしれない。
※ジブリパークでの2CV展示の終了時期は未定です。
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コメント
コメントの使い方昔はドイツではビートルと2CVは貧乏人の車でしたが、生産中止が決定すると急に値段が跳ね上がりコレクターアイテムになってしまいました。