2014年11月に逝去した自動車評論家、徳大寺有恒。ベストカーが今あるのも氏の活躍があってこそだが、ここでは2014年の本誌企画「俺と疾れ!!」をご紹介する。(本稿は『ベストカー』2014年5月26日号に掲載したものを再編集したものです。著作権上の観点から質問いただいた方の文面は非掲載とし、それに合わせて適宜修正しています)。
ランチアの魅力

これまで実に多くのクルマが生まれ、その中には文字どおりすばらしいクルマもあった。スタイル、エンジン、メカニズムとそれぞれが優れたバランスを持つクルマが多くの人から「名車」と賞賛され歴史に名をとどめていく。
その「名車」たちの中でも特別な1台としてランチアを選びたい。特にランチア・アウレリアGTはほんの少し乗っただけであったが、こいつの魂が込められたようなフィーリングに痺れた。世界最初のGTと呼ばれるが、納得である。
マニュアルトランスミッションの感じ、ブレーキの踏み心地とその効き方、エンジンのやや軽めの音と回転が上がるにつれて沸き出るトルクの出方、そして100km/hに近づくとエンジンは3000rpm少々を示しているが、この時のクルマとの一体感から生まれる感動といったら凄いものだった。
当時ヨーロッパの道とて、完全とは言えず、やや路面が荒れていたが、乗り心地はベストでしかも路面のフィールをしっかりと伝えてきた。特にブレーキはビシッと効いてくれる。私の乗ったアウレリアはB20GTといって1951年に誕生したモデルだ。それまでのランチアはV4エンジンで、アウレリアは世界で初めてV6エンジンを搭載するが、B20は2L・V6ユニットを搭載し75ps/4500rpm、14.0kgm/3500rpmというスペックであった。
数字としては驚くものではないが、当時の日本車にはむろん、さすがのドイツのメルセデスにもV6はなく、そのフィーリングは例えようがなかった。
この時はジャグァに乗りに行く途中だったが、ジャグァにしても及ばない乗り心地とボディの仕上げのよさが際だっていた。
私はいっぺんにランチアのファンになった。しかし、1969年フィアットの傘下に入って以降のランチアはフィアットの高級版でしかなく、量産のランチアはその片鱗こそ見せてはいたが、充分な高級車とは言えなかった。
その後しばらくしてランチアはガンマを出す。1976年のジュネーブショーで発表されたこのモデルはフラットフォーの2Lと2.5Lを搭載したフラッグシップで、注文を入れたが日本には導入されなかった。私はイタリアで乗り、大いに気に入り注文したが日本で発売されることはなかった。
そのほか、ランチアは何度か手に入れたが、どうしてもフィアットの高級版であった。それはそれでよく、趣味のよさを感じさせるものの、本物の高級とはいえないものだった。
フィアットグループになる以前のランチアの魅力が高級にあることはいうまでもない。その仕上がりのよさと高級車としての気品をランチアは持っていた。
ランチアはラリーをやっていたのでとにかく走りがいい。1960年代にランチアに乗りに出かけた時にテストドライバーと仲よくなり、手話で話した。そのほかにランチアの広報担当として若い女性も来た。この女性が美しく、上品で少し英語ができることもあって彼女とは世間話などをした。
オペラが好きな彼女とはイタリアンオペラの話で盛り上がった。特にテノールのジュゼッペ・ディ・ステファーノのファンらしく彼を褒め称えていた。そして彼女からはうまいメシのことも教わった。トリノやローマの店についてよく知っていた。
フィアットのあるトリノは長く政治の中心だったからメシ屋はたくさんある。トリノのレストランはミラノと違い、ややクラシックな料理を得意とする。肉や魚を焼く料理が多いのだが、けっこういける。そしてトリノの山中にあるレストランが気に入った。
それはトリノの中心部からクルマで30分ほど走ったところにある山小屋ふうのレストランで実にうまかった。
イタリアのディナーはゆっくりと時間が過ぎる。3時間はかかると思ったほうがいい。私は酒のほうは付き合えないが、それでもけっこう遅くなった。毎晩となると辛いので、そういう時は早々に失礼して寝るにかぎる。
それでもパーティーは楽しい。しっかりオシャレを決めた人、趣味がいい人もいる。そういう人は特に食事には一家言持つ人が多いので彼らにうまいレストランを教えてもらうのだ。ランチア試乗で出会った人はフレンドリーで話しも弾んだ。トリノはローマやミラノよりもレストランにかぎらず、どのお店も小粋でしゃれていた。
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