ゼミの教授からはトヨタを薦められるも、マツダへの入社を決める

卒業を控え就職は当初、商社や海運業界を志望していたという。日本より広い世界で仕事をしてみたいという思いがあったが、「なぜその業界なのか」という問いに確固たる答えを見いだせずにいた。そんな中で「父が歩んできた仕事や人生と同じ自動車業界であれば父を超えられるのでは?」と考えるようになったという。
何気なくゼミの担当教授に「クルマ業界はどうですか?」と相談した。すると「トヨタなら推薦の話ができるかもしれないが、どうか?」それが教授からの提案だった。
「悪くない話でしたが、マツダ車を販売する父のことや、ブランドに対しての愛着もありましたので、やはり迷いましたが、マツダへ進むことを決めました」
そして1983年3月、マツダへ入社することになる。だが一方で、
「マツダで何をやりたいのか? こうした分野のこんな部署に進んで、こんな仕事に携わってみたい」と言った明確なビジョンがあったわけではなかったという。
「クルマを作る側といって“文系”ですから、直接クルマを作るエンジニアという道はありません。同期入社の人たちの中には『商品企画』とか『営業企画』を希望する人が多かったと思います。クルマづくりにも関われますから、人気があったと思います。
そんな中で私は『営業職』を希望しました。ライバルが少なければ希望も通りやすいし、なによりメーカーの立場で『クルマ販売の最前線』の仕事をしてみようと考えました」
ライバルが比較的少ない「営業職」を希望した毛籠社長だったが、
「当時の営業職と言えば、いわば社内では本流ではなかったので、希望者も少なかったんです。でも私はそんなネガティブな気持ちを抱いていたわけではなく、エンジニアを初めとした多くの人たちが懸命につくり、そして育て上げたマツダ車をしっかりと理解してもらって買ってもらおうと、真剣に思っていました。そこで最初に配属されたのは希望していた法人営業でした」
営業職は販売店に出向してクルマを売る仕事であり、特に銀行関係を担当し、若いながらも支店長などの偉い人と接していたという。
「人と接することの難しさを感じました。なにより当時、マツダ車は技術的にユニークな面もあったのですが、一方で品質問題や値引き競争のためにブランド力が足りなかったというか、他社さんに比べて、少し下に見られていて本当に悔しかった。販売台数は国内3位だったんですが収益が伴わず、ブランド価値向上の必要性を強く感じました」
そうした状況で経験した1989年発売の初代ロードスターの投入。現在まで受け継がれているマツダのブランドイメージの根幹を成す「人馬一体」というコンセプトは世界的な大ヒットを成しとげた。当然のようにマツダのブランド価値は向上したのだが、それでもまだ品質問題などについてのネガティブな状況は、営業の最前線に身を置いていた毛籠社長は痛感していたのだ。
「そんなジレンマからかもしれませんが、最初は自分のやりたいことを押し付けてしまうなど、マネジメントスキルの不足もあって、周囲がついてこなくなった経験があります。また、お客様とのやり取りの中で知識不足を痛感し、厳しい指摘を受けながらも、自ら学び続ける必要性を感じ、同時に現場での苦労やトラブル対応を通じて、誠意をもって謝罪し理解を得る重要性を学びました」
こうして若き頃の毛籠社長は営業の最前線で「ブランド価値」と「マネジメント」の向上がいかに重要かを、身をもって学んでいった。
「誰もが理解できる原則論ですが、それを現場で実践することは本当に難しい」
毛籠社長がことあるごとに口にする“現場主義の重要性”。その言葉は修羅場を多く経験してきた同氏ならではの重みがある。
「26歳ぐらいから30歳ぐらいまでの経験によって『世間』というものを知りました。社内の理屈じゃないところで、ビジネスを行わなければいけない。それはまさに『外で鍛えられた』という感覚です」
特に辛かったのはブランド力の弱さで、いかんともし難いことだった。
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