■童夢-零
1978年のジュネーブショーで世界初公開
株式会社童夢は、日本におけるレーシングカー・コンストラクターの草分けといえる林みのるが1975年に京都で興した会社。1994年にはF1への挑戦を開始し、現在は滋賀県に本社を置いてスーパー耐久シリーズなどに参戦している。
そんな童夢が1978年のジュネーブモーターショーで初公開した和製スーパースポーツが「童夢-零」だった。
「どうせ作るからには何か“世界一”となる要素が欲しい」と考えた林氏は、童夢-零の全高を「980mm」という世界一低い寸法に設定。
そのうえで、開発には当時の日本を代表するレーシングカーデザイナーたちが参加した。ちなみに童夢-零はショーカーではなくあくまで市販を前提としたスーパーカーであるため、エンジンはメンテナンス性と供給性の観点から日産のL28型直6SOHCが選ばれている。
スチール製のモノコックシャシーにFRP製の超絶ウェッジシェイプなボディを載せたフォルムはまさにスーパーカーそのものだったが、残念ながら日本では型式認定が取得できなかった。
そのため、アメリカの法規に合わせた改良モデル「童夢 P-2」を製作し、走行テストも行われたが、結果として資金難から計画は頓挫。 もしもあのまま童夢-零またはP-2が市販されていたなら……もしかしたら今ごろ、MJブロンディさんはカウンタックではなく「童夢」に乗っていたのかもしれない(……いや、それはないか)。
■日産MID4&MID4II
1985年のフランクフルトショーで世界初公開(MID4)、1987年の東京モーターショーで世界初公開(MID4II)
日産 MID4は、1980年代に入ってシェアを失った日産が、状況を打開すべく開発をスタートさせたミッドシップスポーツ。
開発担当者となったのはスカイラインでおなじみの桜井眞一郎氏で、エンジンはVG30EをDOHC化した最高出力230psのVG30DEを横置きに搭載。
駆動方式は4WDで、トラクションに優れる4WDとミッドシップレイアウトを組み合わせることで、海外のスーパーカーに負けないレベルの運動性能を得ようとした。
1985年のフランクフルトモーターショーでデビューしたMID4は同年の東京モーターショーにも出品され、そして市販化を前提とした「MID4 II」の開発がスタート。
開発主査は桜井氏から指名された中安三貴氏で、デザインはベストカーの「デザイン水掛け論」でおなじみだった前澤義雄氏が担当した。
ミッドシップ+四輪駆動というレイアウトはI型から踏襲されたが、エンジンは最高出力330psのVG30DETT型ツインターボを縦置き搭載することに。
サスペンションはフロントがツインダンパー式のダブルウィッシュボーンで、リアはマルチリンクに「HICAS」を装備した。
そのような形でいちおう完成したMID4 IIだったが、それを市販するには「(問題点をつぶすための)さらなる開発期間」と「それを売るのだという全社的なコンセンサス」、さらには「2000万円級の車両価格」が必要となることが判明。
当時の日産は「それらを受け入れる体力は弊社にはない」と判断し、MID4 IIの市販化を断念。もしも発売されていたならば、ホンダにおける初代ホンダNSXにも似た日産の「伝説」あるいは「金字塔」になったのかもしれないが……。
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