■今振り返る、私にとっての熱きシルエットフォーミュラ
(TEXT/高橋二朗)
シルエットフォーミュラとは珍しい。いや、随分マニアックな、そしてこんな時代もあった的なニッチ企画だな。
自分がこの仕事をスタートした1970年代の終わりから’80年代の初めの頃、当時のグループ5規格のツーリングカーを称してスーパーシルエットと呼ばれた。世界選手権も展開されていたけれど、まだ海外の取材歴もほぼなく、国内で最も人気のあった富士グランチャンピオンシリーズのサポーティングイベントとしてシリーズ展開されていて目の当たりにすることができた。
格好は市販のツーリングカーが元になっていたけれど、その中身はアルミモノコック、いやアルミパネルにパイプのスペースフレームを組み合わせたレーシングカーそのもの。今から考えるとプリミティブなレーシングカーだ。
でも、カウルを外してその中身が見えた時の「これは凄い」という衝撃があった。フロントミドシップにマウントされたエンジン。よってコックピット内に張り出たミッションのカバー。ドライバーの居住性はあまりよろしくなかっただろうな。
ハッキリ言って、そのハデハデな形状から当時の暴走族にはとても人気のあったカテゴリー、シリーズだった。当時の富士グランチャンピオンシリーズの人気は現在のスーパーGT人気よりもの凄くて、メディアであっても宿を相当早く出ないと予定時刻にサーキットに到着できないほど周辺の道路は大渋滞した。
富士スピードウェイから国道246号線まで来場のクルマが繋がってしまうことなど珍しくなかった。裏道を使ってサーキットに近づき、メインゲートまであと少しのところまで来た時、バックミラーを確認すると星野一義さんがドライブして参戦していた「ニチラ シルビアターボ」の車両がすぐ後ろにいた。
ちょうどマシン製作を日産から請け負っていたノバ・エンジニアリングさんの前あたりだったので、自走してサーキットまで行くのかと思ったら、ステアリングを握っていたのは、リーゼントにサングラスの〝族っぽい〟若者だった。形状もカラーリングもそのまま。とてもよくできた族車だった。そのクルマと同じようにメインゲート前には、どうやってここまで辿り着いたのか不思議になるようなスカイラインRSS(R30)のシルエットフォーミュラレプリカが何台も入場を待っていたりした。
そのほとんどのクルマたちは、サーキット周辺に来て車高を下げ、持参のウイングやカウルを装着したりしていた。仲間同士で頑張って仕立て上げた、なんちゃって「スーパーシルエット」がたくさん集まっていて、今思えば微笑ましい(法規的にはまずいっすね)。
さて、シリーズの参加台数はあまり多くなかったな。黒船的存在は、海外から逆輸入されたトヨタのセリカLBターボ。ドイツのチューナー、シュニッツァーが製作したマシンをトムスが買って参戦。コーナリング性能は、お世辞にも優れているとはいえないマシンだったけれど、ターボが効いてからの速さには度肝を抜かれた。
富士の最終コーナーまで中段を走行していたかと思ったらストレートに出た瞬間もの凄い加速で前車をぶち抜き、グランドスタンドからもその速さへの驚嘆の声が湧き上がった。当時そのセリカLBのステアリングを握った現トムス会長の舘信秀さんは「昔のターボだから、ドッカンターボなワケよ。それが本当にドッカーン! ってパワー出て1コーナーで止まりきれないかと思ったよ(笑)」と言っていた。しかし、パワーが出過ぎてほとんど完走できず、ミッションを壊してリタイヤばかりしていた。
スーパーシルエットの主な参加車両は、日産車だった。スカイラインRS、S110シルビア、910ブルーバード、バイオレット。ガゼールっていうのもあったな。日産の大森、現在のNISMOがエントラントとなって、ワークスドライバーたちがステアリングを握り参戦。スカイラインRSは長谷見昌弘さん。シルビアは星野さん。そして、バイオレット、ブルーバードとガゼールは柳田春人さんだった。
これにプライベーターチームがBMW M1を引っさげて挑むという展開。マツダもRX-7で参戦していたな。
日産の各マシンは、1トンくらいの車重に直4、2Lターボエンジン。出力は当時としてはとてつもない550ps以上だった。インジェクションシステムがまだメカニカルだったので、アクセルオフすると、もの凄いバックファイヤーが出た。
富士スピードウェイの100Rからヘアピンコーナーにアプローチしてきた時にアクセルオフすると、サイドのエキゾーストから火が出る様を観るだけでファンたちは歓声を上げた。M1が12気筒の甲高いサウンド、そしてマツダは当然ロータリーの独特なサウンドだったから日産を中心としたターボ車とはとても対照的だった。
このカテゴリーのライフは、わずか4年、日産が積極的に車両開発したことで人気を博したけれど、それも2年間くらいだったかな。それにしてもサーキットに咲いた徒花といったら失礼かもしれないけれど、その存在自体にワクワクさせられたし、日産内ではマシンの中身が同じなので接戦が演じられて面白いレースだった。
エンジニアリングとパワーのアウトプットのバランスが取れていなくてまだまだカオスまっただ中の時代を象徴するようなマシンたちだったかなとも思う。
現在のような炭素素材=カーボンを用いたマシン作りなどなく、空力の風洞実験もない。マシンがピットインしてくるたびに多くのスタッフがマシンに取りついてとてもアナログな作業を行って再びコースへ送り出す。前時代の短くも華々しく激しいカテゴリーだったかな。
コメント
コメントの使い方