コーナリング性能は二の次、直線だけはバカッ速い“直線番長”と呼ばれるハイパワーモデルが次から次へと登場した1980年代後半~2000年代前半の国産スポーツカー市場。今では死語になりつつある直線番長だが、そんなクルマに胸躍らせた当時の時代背景と直線番長の魅力を今一度振り返ってみる。
文/FK、写真/日産、マツダ、三菱、写真AC
【画像ギャラリー】速けりゃいいじゃん! 猪突猛進マシン「直線番長」の魅力再考!
日本中のクルマ好きが”速さ”に夢中になった時代
今から約半世紀前の1970年代後半、交通量が少ない深夜の港湾や埋め立て地などで非合法の公道レースがブームになっていた。その公道レースとは、停車状態から一気にフルパワーで加速して400m先に設定されたフィニッシュ地点までの到達タイムを競う“ゼロヨン”。
1984年にはJAF公認団体のロードランナーレーシングクラブ(RRC)が初の公認競技を開催すると同時に名だたるパーツメーカーやチューニングショップが追随、さらにはチューニング雑誌などでもさかんにとりあげられるようになり、ゼロヨン(=ドラッグレース)は瞬く間に人気のレースカテゴリーのひとつへと発展していった。
そんなゼロヨン人気が高まりつつあった時期とほぼ同じ頃、週末になると走り屋たちが夜な夜な集まる場所があった。それは、神奈川・東京・千葉を結ぶ首都高速の湾岸線。集まった走り屋たちの目的はただひとつ、クルマの限界スピードを追求したり、区間内のタイムを競う“最高速アタック”だった。湾岸最高速仕様なるチューニングメニューで仕上げた1台で湾岸最速の称号を手に入れるべく、スリリングな最高速バトルを繰り広げた。
280馬力という壁が生み出した“直線番長”という存在
しかし、2000年を過ぎたあたりからドラッグレースは下火となり、首都高速での最高速アタックも取り締まりの強化によって、両者はともに“今は昔”の出来事となった。今では想像できないような過激な状況にあった当時、クルマ好きを虜にしたゼロヨンと最高速バトルの両シーンで求められたのはエンジンであれば大排気量かつ高出力、ハンドリングであれば旋回性能よりも直進安定性。そう、今回のテーマである“直線番長”だったのだ。
直線番長と聞いて思い浮かべる国産モデルは十人十色だが、先述のRRCで活躍したクルマで言えば世界有数のチューニングパーツメーカーとして知られるHKSの70型スープラとR32型GT-Rが有名だ。1991年8月、RRCドラッグレースのトップカテゴリーであるプロストッククラスで当時の“8秒の壁”を突破する7秒91を叩き出した『HKS DRAG 70 SUPRA』や、1994~1996年のRRCドラッグシリーズでシリーズ王者を獲得した『HKS DRAG R32 GT-R』の2台は、HKSが“常勝ドラッグ王国”を築くうえで礎となったマシンといえるだろう。
直線番長が崇められた当時の日本に『280馬力自主規制』(2004年6月撤廃)なるものがあったことは周知のとおりだが、この280馬力規制ギリギリまで出力が高められたモデルは、大排気量かつ高出力が条件のひとつとして求められた“直線番長”にはうってつけの存在だった。
HKSのドラッグマシンのベースになった1JZ-GTE型エンジン搭載の70型スープラ(HKS DRAG 70 SUPRAが搭載していたのは7M-GTEU型エンジンがベース)やRB26DETT型エンジン搭載のR32型GT-Rを筆頭に、VG30DETT型エンジン搭載の32型フェアレディZ、6G72型エンジン搭載の初代GTO、C30A型エンジン搭載の初代NSX、2JZ-GTE型エンジン搭載の80型スープラ&初代アリスト、さらには後発組のFD3S型RX-7、ランサーエボリューションⅣ、インプレッサWRXに至るまで最高速アタックのチューニングベースに選ばれる国産ハイパワーモデルは枚挙に暇がなかった。
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