■スズキはコストの安い軽だけでなく、手頃なスポーツ車を発売した功績は大きい
身近な価格設定だけでなく運転の楽しさを提供するという面で、スズキはかねてよりそうした思考を持ち続ける自動車メーカーではないか。
1963年に、国内の本格的な自動車レースとして、鈴鹿サーキットで日本グランプリが開催された。その際、スズキはスズライトで参戦し、軽自動車のクラスで1~2位を獲得した。
スズキも、同じ静岡県のホンダ同様に、自転車にエンジンを取り付けた2輪車から作りはじめ、いずれは4輪自動車への参入を狙っていた。その最初のクルマがスズライトだ。スズライトの登場をきっかけに、スバル360、マツダR360、三菱ミニカといった軽自動車が続々と誕生する。
スズライトの後継がフロンテで、高速性能を上げ、イタリアの高速道路をミラノからローマまで平均時速125kmで走った。運転したのは、有名な英国のレーシングドライバーであるスターリング・モスと、2輪ライダーの伊藤光夫だった。
1971年には、フロンテクーペという2人乗り(のちに4人乗りも追加)の軽自動車を世に送り出した。排気量は当時の360ccだったが、2ストロークの3気筒で37馬力を出し、このエンジンが、日本特有のフォーミュラレースだったFL500の主流となるのである。
ミニF1と表現されることもあったFL500には私も1978~79年に参戦し、ほかにホンダエンジンを搭載する選手も一部にいたが、スズキが圧倒的優位を誇っていた。
1979年に、「アルト47万円」という衝撃的な低価格で初代アルトが誕生した。2代目で、さっそくアルトワークスが現われる。そして、ワークスカップと呼ばれるレースも開催されるようになった。
スイフトでは、2002年にイグニス(海外)の車名で世界ジュニアラリー選手権(JWRC)への参戦をはじめた。2004年と2007年にドライバー選手権のタイトルを獲得する。この活動は2010年まで続けられ、また世界ラリー選手権(WRC)へも2007~08年とSX4で参戦している。
そのほか、田嶋伸博(通称モンスター田嶋)が米国のパイクスピークヒルクライムに参戦したのも、スズキ車が基となった。車両の中身は特別仕様だったが、モータースポーツ活動と関係を保ち続けるスズキの姿を、国内外含め歴史のなかで見ることができる。
大手自動車メーカーに比べ、広告宣伝を含めた参戦規模で必ずしも目立つ活動ではなかったかもしれないが、手近な車種で誰もが参加できるモータースポーツと関りを持ってきたのがスズキといえるだろう。
そうした歴史を顧みれば、いま改めて手ごろな価格で手に入れられるスポーティ車種としてのアルトワークスやスイフトスポーツに乗ることは、運転することを楽しむ人々にとっての誇りといって間違いない。
クルマの喜びは、一つの姿ではなく、スズキにはほかに他社では類を見ないジムニーがあり、SUVとして独自の存在であるハスラーがあり、遊びに出かけるクルマとしてのワゴンRがあり、というように、単なる移動手段というだけでなく、クルマがある喜びに目を向け続けるスズキの姿勢がみえてくるのではないか。
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