R33GT-Rのインパクトを強くするために、ニュル8分切りは必須条件だった
ニュルへテストにいってR32GT-Rは8分20秒ぐらいで走っていたけれど、今回のどうなのと商品本部長に言われて、計算すれば8分2秒ぐらいですかねと言ったら。お前バカかと。本当に技術屋は頭が硬いと言われたという。
その世代交代というインパクトがわかっているのかと、4万200円と3万9800円その差は400円だけど、インパクトはどうなのだといわれたので、それは3万9800円ですと言った。
8分を切れないとは言えないけれど、やってみてダメだったら謝ればいいやと開き直って。まぁ3人がスタートは遅く、ゴールは早押しだったかもしれないけれど、7分59秒だったということでマイナス21秒という言葉が生まれた。
これで日本に帰れるなと正直思ったと渡邉は話す。R33の商品主管を拝命されたときに商品本部長から商品主管ってわかっているよな、目標未達成だったら、家にいって金返せといわれるのだよ。と言われたそうだ。クルマの開発費を家とか土地売って返せるのだったら苦労しないと思った。
R32からの上澄みを見せることでマイナス21秒のロマンが生まれた。あと、R33では何をやるのかと一生懸命考えたときにR32GT-Rは豪州、スパで勝っているからでもルマンに行っていない。だからル・マンに参戦しようということになった。
そこで水野和敏さんと考えて、ハコのクルマの中ではどうにかなるかなということになった。言い忘れていたが、ポルシェ904との戦いから始まって。スカイライン。特にGT-Rというのはハコで速いというのが良く言われているが、それが役割だと思っている。
だからルマンでもハコで戦おうと思ったし、ルマンに出したおかげで、ルマン参戦記念車といってボディカラーで商売するということを教えてももらったのは良かったと話す。
そしてR33で、今でも忘れられない思い出が、スーパー耐久でもがんばろうと思って参戦した。R32GT-Rが華々しいデビューを飾った美祢でR33も美祢のスーパー耐久に参戦。モノの見事にR32GT-Rに負けてしまう。
レース後販社の社長に、ゲストハウスに呼びつけられて、お前オレに古いクルマ売れというのかとこってり絞られたそうだ。それ以来美祢に行ってゲストハウスを見るとその時の嫌な記憶が蘇ってトラウマになったと言う。
モーターショーで参考出品したら、ボロクソにいわれて、グリルとリアスポイラーは若い人に教えてもらった。毎日雑誌が机の上にあってみんなえぐいのばかりでそれに目を馴らしてくれて。顔もえぐいのにして、R33が決まった。
あのときは若い人に世話になった。だから基準車もマイナーチェンジで2ドアの基準車もモーターショーに出品したフロントとリアスポイラーを装着したし、色々と勉強になった。
技術的な進化もあり、車外騒音を減らすかとか色々とテストを行った。しかし、その頃は広報含めて、雑誌を送ってもらっていたけれど、ほとんど見ずにゴミ箱に入れていたそうだ。
R32GT-Rはアンダー傾向が強かった。それを見事に変えたのは名匠加藤博義さんの味付けが良かったということ。彼は本当に苦労していたと話す。
開発中に自宅に帰ってきたときにウチの傍で隠れているのではないかというぐらいドンピシャのタイミングで電話してきて、こちらは疲れて、お腹空いているからご飯食べたいなと思っているのに、「お金がないか、お金がなければ時間がないか」と初めて加藤さんが電話で連絡してきたそうだ。
こちらは、速く切りたいからいい加減なこと言ってきろうかと思ったけれど、そうもいかな。開発スケジュール上はやっぱり、僕の一存ではとても延ばすことはできないから、スケジュールを守るしかない。手品師ではないからタマはない。もう頼みになるのはお前だけだからがんばってくれとしか言えなかったと話す。
バブルが弾けてお金がなかったこともありましたけれど、ストレス太りですかね。体重が増えていて、このままでは肝機能障害になると言われて、アイスクリームを食べていて、甘いモノは一切ダメとドクターストップが掛かった。
3カ月それをしたら7キロくらい痩せて。痩せてどうしたのといわれると病気と言ったりしていたそうだ。それくらいストレスを抱えて開発をしていたのだ。
【画像ギャラリー】第2世代スカイラインGT-R。R33型スカイラインGT-Rを画像で紹介(5枚)画像ギャラリー
コメント
コメントの使い方