スバルの原点は実はバス!
伊勢崎にはスバルに所縁のある場所がもうひとつある。先ほどショッピングモールを「第二工場跡地」と言ったが、当然、伊勢崎製作所には第一工場もあるのだ。
こちらは跡地でもなんでもなく、現在もスバルグループ伊勢崎工場として「桐生工業」「富士機械」「スバル興産」が仕事を続けている。だから許可なく立ち入りはできないのだが、実は数年前まで、入り口脇に、日本初のフレームレスモノコックバスと言われる「R5型(通称:ふじ号)」が展示してあったのだ。
なぜバスなのか。話は終戦当時に遡る。1945年に戦争が終わり、GHQから航空機製造を禁じられた中島飛行機は富士産業へと改称された。その富士産業が生き残り策として目を付けたのが、バスのボディ架装だった。当時のバスといえばボンネット型が主流だったが、航空機の設計技術を持つ富士産業には現代風のキャブオーバー型ボディを作るノウハウがあった。これが「乗車定員を増やせる」とバス会社から高い人気を集め、富士産業の柱のひとつへと成長したのだ。
バスボディの架装は、当初群馬県小泉町にあった旧中島飛行機小泉製作所(ゼロ戦の生産拠点!)で行われたが、1947年に伊勢崎工場が作られこちらが本拠地となった。つまりスバルの原点は乗用車ではなくバス。そのバスの生まれ故郷といえるのが、ほかならぬこの伊勢崎製作所第一工場というわけだ。
上の写真は2015年に筆者が許可を得て撮影したもので、敷地内にあった「ふじ号」の姿。フレームレスゆえに床が低く、現代のバスにも通じる設計思想が感じられる。とても1949年製とは思えない圧倒的な先進性だ。
このほか、この第一工場には数年前まで「富士重工」と書かれた煙突があり、これまた伊勢崎をスバルの町と感じさせるシンボルだった。現在は名前も消えてリニュアルされているが、地元民としてはどこか喪失感が否めない。
いかがだったろうか。確かに伊勢崎は暑い(泣)。しかしそれ以上にクルマ(特にスバル車)との関わりが「熱く」残る町なのだ。「スバル乗りだから太田詣でしなきゃ」なんて考えているスバリストは、ぜひ北関東道を素通りせず、伊勢崎にも立ち寄ってほしい。ただし暑さ対策は万全に。
※伊勢崎第一工場跡(現スバルグループ伊勢崎工場)は現在も稼動中であり、一般の立ち入りはできません。
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