■日本の「キャンバストップ」の歴史
「キャンバス」といえば、中高年齢層のドライバーは、往年の「キャンバストップ」を連想することもあるだろう。これはまさにルーフにキャンバス(帆布)風のビニールなどを使っており、折り畳んで開ける構造だ。
既存のクローズドボディをベースに、天井部分をカットして開閉式のキャンバスを採用することにより、気軽にオープンドライブを楽しめた。
キャンバストップの歴史は古く、1958年に発売されたスバル360は、1959年にコンバーチブルを加えた。スバル360はモノコック構造だが、ピラー(柱)とルーフを囲む部分だけで、ボディ剛性を確保できる。
そのためにルーフはFRP(繊維強化プラスチック)で軽量化され、発売時点の車両重量は385kgだった。当時の軽自動車を100kg以上も下まわり、比率に換算すれば、ほかの車種の70~80%に収まる。
この特徴を生かしたのがコンバーチブルだ。実質的にはその後のキャンバストップと同様の構造で、ピラー以外のルーフ部分が幌になる。リヤウインドーの部分まで含めて、前から後ろ側に向けて巻き取るように格納できた。
当時のクルマにはほとんどエアコン(冷房)が装着されず、実際に涼しいか否かは別にして、清涼感を味わえることからコンバーチブルが人気を得た事情もあった。
この後、ボディがフルオープンになるコンバーチブルは、トヨタ パブリカ、ダイハツ コンパーノスパイダーといった具合に残ったが、スバル360のようなルーフ部分だけを巻き取るキャンバストップは廃れていった。
特に1960年代の後半から厳しい排出ガス規制が実施される1970年代中盤までの約10年間は、クルマの走行性能、乗り心地、装備、内外装の質などが急速に進化した。この影響でオープンドライブの爽快感は、ユーザーのニーズからはずれていった。
■一度は廃れたキャンバストップが再注目!
ところが1986年になると、キャンバストップが登場した。装着したのは、マツダが当時のオートラマ店で販売したフォードブランドのフェスティバだ。日本初の電動キャンバストップを採用して、スイッチ操作で手軽にオープンドライブを楽しめた。
開いてもピラーやサイドウインドーは残るが、天井は大半が畳まれるから、一部だけが開くサンルーフに比べて大幅に開放的だ。一般的なコンバーチブルの場合、開放感は抜群でも手動式になると操作が面倒だが、キャンバストップは扱いやすく雨が降り始めた時も安心だった。
価格も割安だ。フェスティバキャンバストップは、直列4気筒1.3Lエンジンを搭載して、3速AT仕様が108万8000円だった。クローズドボディで装備を充実させた1.3ギアの3速ATが103万3000円だから、価格の安さでも注目された。
ほかのオープンモデルは、1984年に発売されたホンダ シティカブリオレが138万円、マツダ ファミリアカブリオレは195万円だったから、フェスティバキャンバストップはオープンモデルの中でも特に安かった。
フェスティバはキャンバストップの採用で人気を高めた。その背景には、当時のクルマを取り巻く環境もあった。インターネット、メール、携帯電話などがなかったから、自宅でコミュニケーションを図るツールは固定電話だけだ。情報を得られる媒体も、TV、ラジオ、新聞、雑誌程度しかない。
自宅にいても退屈だから、外へ出かけたくなる。彼女や友人と直接会ったり、一緒に出かけられるクルマは、大切なコミュニケーションツールであった。
そのために当時は若年層の間でもクルマの人気が高く、移動をさらに楽しく、爽快にできる手軽なオープンモデルのキャンバストップが注目された。キャンバストップを開いて走ると、日常的な移動でも気分が変わり、ドライブに出かけたような満足感を味わえた。
フェスティバの成功を受けて、当時はキャンバストップが流行した。コンパクトカーでは初代日産 マーチ、3代目/4代目のトヨタ スターレット、軽自動車では5代目三菱ミニカなどがキャンバストップを採用している。
このキャンバストップが、今の日本車には用意されていない。選択できるのは輸入車だが、ルノー・トゥインゴなどに限られてしまう。
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