その昔、北海道のあちこちで石炭が掘られていた。石炭が出る場所には何万人もの人々が暮らす炭鉱町が作られ、町の大切な移動手段として路線バスが重宝されていた。
やがて栄華を極めた炭鉱も昭和の時代に斜陽となり、ほとんどの場所が炭鉱町から「炭鉱があった町」へと変わった。そんな炭鉱があった町のバス事情は今どうなっているのだろうか。
文・写真:中山修一
■炭鉱があった町に今もバスで行けるのか? 〜羽幌炭鉱〜
今回は北海道にあった炭鉱のうち3カ所を選んでみた。はじめは札幌から稚内方面へ日本海側を沿って、およそ220km進んだところにあった羽幌炭鉱だ。
羽幌炭鉱は1940年に開坑。良質な石炭が採れる炭鉱で知られ、最盛期には3万人以上が暮らしていたと言われている。抗区が築別坑、羽幌本坑、上羽幌坑の3カ所あり、両端で13kmくらい離れていた。
石炭の積み出しを含めた基本の交通手段は鉄道で、築別炭鉱〜築別16.6kmを結び、築別から国鉄羽幌線に接続していた羽幌炭鉱鉄道があり、1964年時点で旅客列車が1日8往復運転されていた。
それぞれの抗区の間を繋ぐ交通手段としては、1960年から路線バスが使われるようになった。ボンネットバスを皮切りに、いすゞ製の大型路線車が追加で導入され、4台体制で運行していたらしい。
1968年には石炭の年産114万トンを誇った羽幌炭鉱であったが、その後急速に下降線をたどるようになり、1970年11月に炭鉱が閉山、1カ月後の12月には鉄道が廃止された。築別で接続していた国鉄羽幌線も1987年に廃止となりバス転換されている。
羽幌炭鉱があった周辺の様子は今どうなっているのか。3万人以上を数えた人口も閉山後の幕引きは早く、炭鉱町は開坑前の無人地帯に戻ってしまい、貯炭場やアパートなどの遺構を残しつつ原野に還ろうとしている。
羽幌炭鉱への入り口だった築別までは、今も沿岸バスを使ってアクセス可能(バス停名は築別)だ。そこから先、人が住まなくなった場所に公共交通機関を設けても意味がないためバス路線はゼロ。現地を見て回るには事実上自家用車かレンタカーが必須だ。
■湖に沈んだ炭鉱町 〜大夕張炭鉱〜
続いては、札幌を起点に地図で見て真右方向へ約80km進んだ先に位置していた大夕張炭鉱だ。1929年に創業した大夕張炭鉱の近くにも炭鉱町ができ、ピーク時には2万人以上の人が住んでいた。
鉄道が交通の背骨であったのは羽幌炭鉱と同様で、こちらは大夕張炭山と、大夕張から最も近い町の清水沢までの17.2kmを結んだ三菱大夕張鉄道が、石炭積出の貨物列車の運行に加えて旅客営業を行なっていた。1964年時点で1日上下それぞれ7本ずつあったようだ。
大夕張は鉄道のほか路線バスの運行も旺盛な炭鉱町で、清水沢や夕張へ向かう路線のほか、乗り換えなしで札幌に出られる都市間特急バスまで設定されていた。
ちょうど1970年代は日本の炭鉱が斜陽を迎える時期にあたり、大夕張炭鉱もまた1973年に閉山。同じ年に大夕張炭山〜南大夕張間の鉄道が部分廃止になったが、閉山後も周辺にまとまった数の人が住んでいたため、バスの運行は続けられた。
大夕張から少し手前の、南大夕張にあった炭鉱のほうはその後も操業を続けたものの、日本の石炭は海外産に対してコスト面で太刀打ちできない時代へと変わり、1987年7月に鉄道が全線廃止、1990年に閉山となった。
一方の路線バスは閉山後も運行していた。転機が訪れたのは1998年で、1962年に作られた人造湖のシューパロ湖に新しいダムを作る計画が持ち上がり、完成すると湖の拡張によって大夕張周辺が水没するため、全ての住人が転出することになった。
それを機に、末期に1日2往復あった大夕張まで行く路線バスが廃止になり、南大夕張近くの「南部」まで区間が短縮されている。
2014年にダムが完成し、現在は炭鉱町があった場所の大部分が湖に沈んだ。大夕張はともかくとして、南部までの路線バスが現在も運行しているかと言えば、残念ながら2017年をもって廃止となっている。
2023年時点で南大夕張周辺は、自家用車あるいはレンタカーを使わないとアクセスが極めて難しい、炭鉱があった町のひとつに数えられる。