今でもその可愛らしいルックスから“テントウムシ”の愛称でも親しまれているスバル360。ただこのスバル360は可愛らしい見た目だけでなく、日本のモータリゼーションに置いて重要な役割を果たした1台でもあったのだが、実はなんと日本国内のみならず、海外へも輸出されていたのである。
文/小鮒康一、写真/スバル、ベストカーWeb編集部
■日本最初の「国民車」となったスバル360
1958年に登場したスバル360は、車名からも分かるように360ccのエンジンを搭載した軽自動車となっており、今からしてみれば非常にミニマムではあるものの、大人4人が乗ることができ、十分な実用性を兼ね備えていながら比較的廉価であったことで、多くのユーザーに支持された。
それまで自動車というものは非常に高額で、自家用車は一部の富裕層のみ特権とされていた中で、一般大衆でも少し頑張れば手の届く価格で販売されたスバル360は、日本初の国民車(大衆車)とも言われており、日本のモータリゼーションにおいて、非常に重要な役割を果たしたモデルとなっているのだ。
そんなスバル360は、1958年3月のデビューから1970年5月までと、12年もの長いモデルライフを誇っており、日進月歩が目覚ましかった当時の自動車としても異例の長寿モデルとなっていた。
そのため通常の2ドアセダンモデルのほか、ルーフ部分を巻き取り式のキャンバストップに置き換えた「コンバーチブル」や、後部に手を加えて商用車としても使用できるようにした「コマーシャル」もあった。
そしてコマーシャルの発展形として車体後部をバン形状とし、上ヒンジ式のテールゲートを設けた商用バンの「カスタム」などの派生車種が存在していたほか、スバル360のプラットホームを流用した商用車、「サンバー」も1961年に登場している。
また1968年には他メーカーからも高性能な軽自動車が登場してきたことも影響してか、ツインキャブレターを搭載し36PSというノーマルの2倍以上の出力を得たホットモデル「ヤングSS」などもリリースされた。
■日本国外にも輸出されたスバル360
日本の国民車として支持を集めたスバル360だが、実は日本国外への輸出も少数ながらなされていた。現在、スバルの重要なマーケットのひとつとなっている北米地域もそのひとつで、当時は現地の実業家の手によって個人輸入という形で販売がされていた。
その人物こそ、後にスバル・オブ・アメリカを立ち上げるマルコム・ブルックリン氏。車両は当時アメリカの統治下にあった沖縄向けに作られていた左ハンドル仕様がベースとなっていたため、ステアリング位置が左側になる以外は排気量も360ccのままとなっていた。
一方、欧州市場には「スバル・マイア」として輸出され、こちらには423ccとスバル360よりも大排気量のエンジンが搭載されていた。このモデルは1960年に旧ソ連を含む欧州の12の国々を来訪し、15000kmに渡る道程を走破しており、一部ではフィアット500に匹敵する走りと評されていた。
しかし現地での販売拠点やサービス網の面で課題が残り、欧州のライバルに対抗する本格輸出は見送られたというエピソードが存在している。
コメント
コメントの使い方