毎年、さまざまな新車が華々しくデビューを飾るその影で、ひっそりと姿を消す車もある。
時代の先を行き過ぎた車、当初は好調だったものの、市場の変化でユーザーの支持を失った車など、消えゆく車の事情はさまざま。
しかし、こうした生産終了車の果敢なチャレンジのうえに、現在の成功したモデルの数々があるといっても過言ではありません。
訳あって生産終了したモデルの数々を振り返る本企画、今回はミツオカ オロチ(2006-2014)をご紹介します。
文/伊達軍曹 写真/光岡自動車、HONDA
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■2001年TMSで大反響を巻き起こした和製スーパーカー
富山県に本社を置く小さな小さな自動車メーカーの作。完全受注生産となる400台の予定台数を売り切ったところで、収支的な数字がプラスになることはないという見通しではあったが、「心意気」という意味で市販を決意。
コンセプトカーの発表から足掛け13年、奮闘を続けたものの、年々変わりゆく法規対応や部品供給などの問題から、2014年をもって生産終了となった和製スーパーカー。
それが、ミツオカ オロチです。
ミツオカ オロチが我々の前に初めて姿を現したのは、2001年秋に開催された第35回東京モーターショー。
富山県の光岡自動車が同ショーに初出展することを記念して作られたコンセプトカーが最初の「ミツオカ オロチ」で、このときはホンダ NSXをベースとしていました。
初出展で大反響となったことから、光岡自動車は2003年の第37回東京モーターショーにオロチの第二次コンセプトモデルを投入。
純粋なショーモデルだった最初のコンセプトモデルと違い、こちらは日本の保安基準への適合を意識し、シャシーもフェラーリ512TRを参考に作られた自社製に置き換えられていました。
その2年後、2005年の第39回東京モーターショーでオロチの市販計画を発表した光岡自動車は2006年10月2日、ミツオカ オロチの市販を正式発表。そして同日、予約受け付けをスタートしたのです。
市販バージョンのパワートレインは、当時のレクサス RX330に使われていた3MZ-FE型3.3L V6DOHC+アイシンAW製5速ATという組み合わせをそのまま採用。
ただし車台は大手自動車メーカーのものを流用したわけではなく、フェラーリ512TRを参考に光岡自動車が独自製作したものです。レイアウト的にはエンジン横置きのミッドシップでした。
オロチのデザインを担当したのは、光岡自動車の社内デザイナーである青木孝憲氏。
カーデザイナーとして、いわゆるエリート的な経歴を持たない青木氏は、光岡自動車創業者の光岡 進氏に拾われるような形で入社。
とはいえ入社から3年ほどは車の説明書を作ったり、マイクロカーの営業をするなどの業務を割り振られていたそうです。
しかし2001年に光岡自動車が東京モーターショーに初出展する話を聞くと――上司に頼まれたわけではなく、まったくの自発的な行動として――自らの情熱や力のすべてをぶつけてコンセプトカーのデザインスケッチを何百枚も書きなぐりました。そして最後にできたデザインが、オロチのデザインでした。
出来上がったスケッチを富山の本社に送ると、即「採用!」ということに。ヤマタノオロチにちなんだ蛇のような目を持つデザインは、青木氏いわく「車のデザインではなく、蛇の彫刻を作ろうと思った」というものだったそうですが、その独創的なフォルムとディテールは、またたく間に業界内外の話題に。
「究極の走りを極める」というタイプの純粋なスーパーカーではなく、「スーパーカー特有の扱いづらさを極力排し、日常的に使える車」という意味での「ファッションスーパーカー」をコンセプトとしたミツオカ オロチ。
それは守旧派な自動車マニアからの評価はさておき、世の中全般からは「好ましい異端」として高く評価され、ある意味愛された一台でした。
その後もイヤーモデルや特別限定車などのリリースを続けたミツオカ オロチでしたが、2014年4月、保安基準や部品調達などの問題から生産終了となることを光岡自動車が発表。
そして同月23日には、5台限定の最終モデル「ファイナル オロチ」が発売されるに至りました。
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