「最後ですから、ごきげんよう。軽自動車は芸術品、守り通して欲しいですね」。スズキの鈴木修会長は、2021年5月13日に行われた2020年度の決算説明会で、このようにコメントした。
かつて軽自動車の増税構想や軽自動車枠を根本的に見直そうとする動きに対して鈴木修氏は以前から、「軽自動車は寸法も排気量も厳しく制限されている。そのなかで4人乗りの素晴らしいクルマができているのは、軽メーカー各社の努力のたまもので、いわば芸術品のようなものだ。
その努力を見ないで普通のクルマと同じようなものと言うのはいかがなものか」と反論してきた。
40年以上にわたってスズキの経営を主導し、いわば日本の軽自動車を育ててきた、カリスマ経営者の最後の言葉として、実に重みのあるものだった。
鈴木修会長は、2021年6月に会長職を退任し、相談役となられる予定で、今回が最後の記者会見。そこで僭越ながら、鈴木修会長の足跡を振り返ってみたい。
文/渡辺陽一郎
写真/スズキ マルチスズキ Adobe Stock(Reuters Photographer/REUTERS)
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■40年以上にわたりスズキの礎を築いてきた鈴木修氏の功績とは
鈴木修氏は、1930年1月30日に岐阜県で生まれた。中央大学法学部を卒業後、銀行勤務を経て、1958年4月に鈴木自動車工業(現在のスズキ)に入社した。
スズキが得意な軽自動車の規格は、1949年に設けられたが、この時点では全長:2800mm、全幅:1000mm、全高:2000mm、エンジン排気量は2サイクル:100cc、4サイクル:150ccというものだった。3輪車を想定した規格で4輪車は成立しない。
その後、軽自動車規格は毎年のように変わり、1955年になって全長:3000mm、全幅1300mm、全高:2000mm、エンジン排気量:360cc(2/4サイクル共通)に落ち着いた。
スズキは当時から対応が早く、1955年には新規格に沿った空冷2サイクル2気筒359ccエンジンを搭載する、日本車初のFFとなる、初代スズライトを発売している。今に通じる2輪と4輪の軽自動車が出そろった。
鈴木修氏は、この3年後に2代目社長、鈴木俊三氏の娘婿になり、同年4月にスズキに入社した。1961年にスズキは新しい軽商用車のスズライトキャリイバン/トラックを発売する。この生産のために愛知県豊川市に新しい工場を建設することになり、その指揮を任されたのが、当時30歳の課長だった鈴木修氏であった。
入社3年後の試練だが、若手の社員10名を集めてプロジェクトを結成した。この時は仮設事務所で机の配置も工夫したという。円形に机を置き、中心に鈴木修氏が座る。椅子を回転させると、誰とでも即座に話ができた。
そしてわずか9ヵ月足らずで工場を完成させ、予算は3億円(現在の貨幣価値で40~50億円)だったのに、2億7000万円で仕上げたという。
1963年には、鈴木修氏は取締役に就任した。新工場が稼働を開始したものの、当時は部品の質や供給体制が悪く、車両の生産も滞りやすかった。そこで鈴木修氏はモーターサイクルで部品工場を訪れ、生産のアドバイスを行った。
販売店に対しても同様であった。軽自動車は都市部よりも、公共交通機関が未発達な地域で、手軽な移動手段として使われることが多い。税金に加えて1台当たりの価格も安いため、小型/普通車のような規模の大きな販売店ではなく、業販店(修理工場などに併設された小さな販売店)を中心に売られる。
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