■徹底した現場主義「気さくで誠実な」人物像
業販店にはさまざまな業態があり、スズキ、ダイハツ、三菱という具合に複数メーカーの軽自動車を幅広く販売する店舗もある。その中でスズキが売れ行きを伸ばすには、販売店の共感を得ることも大切であった。
そこで鈴木修氏は、販売店を綿密に訪れた。冠婚葬祭にも可能な限り出席する。記憶力も抜群だという。例えば前回訪れた時に、経営者の奥さんが病気であれば、次回訪れた時は「奥さんの具合はいかがですか?」と必ず声を掛ける。
経営者の娘さんが妊娠していたとすれば、次回訪れた時には「お孫さんは今3歳ですか? 可愛い盛りですね」という具合だ。たちまち販売店には鈴木修氏のファンが大勢できた。
海外への積極的な進出も鈴木修氏の功績だ。1978年に代表取締役社長に就任すると、インドへの進出を考えた。その発端は「本当のところは大手メーカーと同じように先進国に進出したかったが、小さいクルマを作ってほしいという国はインドしかなかった。
しかし、小さな市場でも良いからNO.1になれば、社員に誇りを持たせられる」という想いだった。のちに「インド進出は先見の明というわけではなかった」とコメントしている。
もっとも、この時点で1980年代に入っていたから、NO.1になれる海外市場はさほど多くない。そこでインドとの交渉に入ったが、双方とも多額のコストは費やせない。問題を打開するため、軽自動車造りのノウハウを生かし、価格の安い国民車的な小型車を着実に普及させた。
そしてインドの4輪車市場におけるスズキのシェアは、50%を超えるに至った。そのほか、アフリカ、中南米、中近東のほか100を超える地域に、ジムニーやバレーノ、スイフトのセダン、ディザイアなど14以上のモデルを輸出している。
このインド市場でも鈴木修氏の現場主義が生きている。
初めてインド市場で販売したマルチ800やワゴンRなどは日本のモデルとはサイズや排気量が異なり、軽を拡大したエスプレッソや人気SUVのビターラブレッツァなどインドの環境やニーズに合わせたインド独自のモデル、税金が優遇される全長4m未満のクルマを展開している。
こうした現場の声を聞く、現場主義のクルマ造りがシェア50%に引き上げた要因だろう。
そのほか、鈴木修会長は徹底したコスト管理を行うことでも知られ、品質のチェックにも厳しい。その甲斐あってか2015年にデビューしたバレーノ発表の会見では「品質がようやく日本のレベルに達した」と述べている。
■鈴木修氏が携わったスズキのクルマたち「ジープのミニ、ジムニー」
鈴木修氏が取締役に昇格したのは1963年、代表取締役社長に就任したのは1978年だから、近年のスズキの主だったクルマには、鈴木修氏がすべて関係している。
まずは1970年に発売された軽自動車の初代ジムニーが挙げられる。ジムニーは最初からスズキが開発したクルマではない。3輪トラックを中心に手掛けていたホープ自動車の「ホープスターON型」がベースだ。
鈴木修氏がホープ自動車の創業社長である小野定良氏と知り合い、製造権を買い取り、そこに改良を施して初代ジムニーが誕生した。
当初は売れないと予想していたが1ヵ月に300台、初年度に6500台、2年目に5600台も売れたという。その時、鈴木修氏はアメリカで赤字を出しており、ジムニーが売れたおかげで会社に借りがなくなったということで、会社を辞めようと思ったそうだ。
ジムニーは軽自動車のSUVで、悪路走破力は抜群に高い。日本の狭く曲がりくねったデコボコの激しい林道や未舗装路に最適だ。Uターンもしやすい。日本で購入可能な最高峰の悪路向けSUVとして生まれ、50年以上を経た今でも、コンセプトを変えずに進化を続けて高い人気を得ている。
ジムニーが発売された1970年には、軽自動車は125万5913台を販売したが、その後に急落した。1973年のオイルショック、これに続く排出ガス規制の痛手が大きく、1975年の登録台数は58万8306台であった。わずか5年間で、軽自動車市場は53%の需要を失った。まさに恐慌であった。
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