元海軍パイロットの証言、「問題の多い機体だった」
このアメリカ取材から帰国した筆者は岡山へ向かった。雷電に搭乗した経験を持つ元海軍パイロットの方にインタビューするためだ。彼は雷電が公式に採用(制式採用)される以前の、開発中の段階からこの機種に搭乗し、雷電だけで組織された最初の部隊の教官を務めた方だった。
零戦の二一型や五二型にも搭乗した氏が真っ先に語られたのは、「雷電ほどジャジャ馬な機体はない」ということだった。一番の問題は着陸だったという。
零戦のような運動性は二の次とされ、かつ空気抵抗を減らすために、雷電の主翼は機体重量に比して小ぶりな設計となっている。つまり主翼面積が狭いのだ。そのため、主翼の翼面荷重(翼の一定面積にかかる重量)が極端に重い。
ちなみに零戦二一型の翼面荷重が一平方メートル当たり109kgなのに対して、雷電では190kgにもなる。こうした機体では、エンジンの回転数を少し下げただけでも飛行高度はストンと落ちる。機速を落とした着陸時には、それはさらに顕著となるのだ。
「横須賀の滑走路は800mしかなかった、そこに雷電を下すのは至難の業でした」
また、最も印象的だったのは、強制冷却ファンの音だったとのこと。遊星ギヤによって高回転する14枚のフィンからは「キーン」という、まるでジェット機のような金属的な爆音が響き、それは遠方からでもすぐに雷電だとわかったという。
火星エンジンに関しては、「馬力が上がると、すぐにオイルの温度が上がってしまうし、自動車がガソリンを喰うみたいに、どんどんオイルが減っていくんです、それも大きな不都合でしたね」と、証言。雷電は何かと問題の多い機体だったと、その印象を語られた。
こうした証言や当時の運用状況から考えて、雷電が高性能な機体だったとは言い難い。しかし、堀越技師が苦心して完成させた機体「雷電」と、同社の深尾淳二が開発指導者を務めた「金星」発動機を、さらに発展させた大型エンジン「火星」は、当時日本の国力と技術力を反映した貴重な産業遺産といえる。その技術は現在の三菱重工業の航空機や自動車開発に連綿と受け継がれているのだ。
取材で訪れたプレーンズ・オブ・フェイム航空博物館やスミソニアン博物館などには、国内には残存していない日本軍機が数多く、驚くほど良好な状態で保存されている。敗戦国にとっては致し方ないことだが、しかし、とくに航空機に関して、日本におけるこうした遺産に対する認識が、自動車やその他工業製品と同様に、さらに高まることを望むばかりだ。
コメント
コメントの使い方