「この人の走りを直接見てみたい」。その一心で原付に飛び乗った高校生の少年がいた。長野から富士スピードウェイまで、約8時間半の道のり。到着した頃には、顔中真っ黒になって、全身もボロボロ。
やっとの思いで辿り着いた富士スピードウェイ。そんな彼を冷たい目で見るレーシングドライバーも多いなか、ひとりのドライバーは歩み寄って優しく声をかけてくれた。
「僕、どうしたの?」
「サイン、ください!」
少年にとって、これからの人生を決める運命の瞬間になった。それこそが、高橋国光と土屋圭市の出会いだ。
レーシングドライバー、そしてドリフトキングとして世界に名を轟かせる土屋圭市。そんな彼をいまのポジションに導いた人こそ高橋国光であり、絶対的な師弟関係だ。
そんな日本が誇るレジェンドドライバーである高橋国光さんが、たくさんの人に惜しまれながら2022年3月16日に逝去した。若かりし頃から彼に憧れてレーシングドライバーとなり、そして共に同じチームで戦い、一番間近でその人柄を見ていた土屋圭市さんに、“国さん”との思い出を語っていただいた。
高橋国光さんの逝去から四十九日を経て、ベストカーWebにてこの記事を公開いたします。動画はYouTube「ベストカーチャンネル」にて公開中。併せて
文/土屋圭市(まとめ/伊藤梓)、写真/ベストカーWeb編集部
■長野から8時間、16歳が富士スピードウェイで触れた洗礼と優しさ
――まず、お二人の最初の出会いについて教えてください。
「出会いは、国さんは覚えていないでしょうね。僕が16歳の頃ですから。長野でバイク仲間とやんちゃしていた頃です。レースを見てみたくて、仲間と10台くらいで富士スピードウェイに向かったんです。地図で見たら『長野から富士スピードウェイなんて近いじゃん、大したことねぇよ』って思っていたわけですよ。
そしたら、当たり前なんだけど実際は8時間半もかかってさ(笑)。着いたら、顔中真っ黒になってた。当時、高校1年生だから入場料を払えるお金もなかったんです。そこで、ペンチで金網切って入って、日産のガレージの前まで行って。
そしたら、高橋健二さんとか北野元さんとかが歩いてきて、誰かは忘れたけど『汚ねぇガキがいるから見るな』とか言ってるのが聞こえたのよ。『俺らのことだよ』ってすぐ分かった。
そんななかさ、国さんが歩いてきてくれて。『僕たち、どうしたの?』って話しかけてくれたの。それで、俺らも『サインください』ってお願いして、ボールペンで紙にサインしてもらって。
その時に『なんて良い人だろう』と思った。本当は他のドライバーの反応が普通なんだろうけど、国さんだけがそうやって僕らのところに来てくれたんだよね。本当に汚ったねぇ小僧相手にね。それが本当に嬉しくて、そのサインはずっと宝物でしたね」
「だから、その時に決めたんです。『俺はあの人の舞台に行きたい』って。18歳になったらすぐに免許を取って、ハコスカを買って、バンパーとグリル外して、高橋国光仕様にして、オーバーフェンダーにして……。2000GTしか買えなかったけど、それをGT-Rもどきにして『俺は高橋国光になる』ってその一心でしたね」
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