■アメリカのホンダブランドイメージとの違い
では、なぜシビックの販売が日米で大きな差がついてしまったのか? そこにはさまざまな要因が見え隠れする……。
最も大きな要因は、ユーザーのホンダブランドに対する受けとめ方だと思う。
筆者(桃田健史)は1980年代中盤からアメリカでの活動や生活を始めたが、その当時でもすでに、アメリカ人のホンダに対するブランド意識が日本人と違うという印象を持っていた。
ホンダがアメリカで本格的な四輪事業を始めたのは、1973年の初代シビックからだ。それまでは、二輪車メーカーとしてロサンゼルス郊外の小規模な拠点で北米全体に向けた事業をこつこつと積み上げてきた。
それが、1970年代に入ってから、通称「マスキー法」という排気ガス規制により、シビック導入の大きな転機を迎える。 1960年代までのアメ車といえば、ボディサイズもエンジンサイズも「大きいことはいいことだ」という風潮で、クルマが庶民のステイタスシンボルとなっていた。
■オイルショックのなか、「市民」の名を持つ小型車の出現はアメリカ人に大きなインパクトを与えた
そこに、排気ガス規制、さらにはオイルショックによるガソリン価格の急騰やガソリン供給不足が追い打ちをかけ、アメ車は一気に窮地に追い込まれる。
そうしたなか、小型で高性能な日本車にアメリカでスポットがあたる。スポーツカーでは初代240Z(S30フェアレディZ)が、アメリカンマッスルカー慣れしていた多くのアメリカ人の心をつかんだ。
一方、大衆車としては、「市民」というネーミングどおり、シビックがアメリカ人に対して大きなインパクトを与えた。親しみやすいデザイン、環境への配慮、低燃費などを併せ持つ「ホンダマジック(魔法)」まで言えるほどの、まさにエポックメイキングだった。
そうした初代シビックの商品イメージがそのまま、ホンダのブランドイメージ、そして企業イメージへとつながっていったといえるだろう。
その後、初代シビックオーナーが第二世代、第三世代へと乗り継ぎ、そうしたシビックが彼らの子供たちに払下げされていく。これと並行して、シビックからアップグレードを望む買い換え需要としては、ひと回り大きなアコードへとユーザーは自然と誘導されていった。
こうして1980年代から1990年代にかけて、アメリカ市場の中核であるC/Dセグメントでは、
シビック&アコードを軸に、カローラ&カムリが対抗し、そこにトーラスなどアメリカ勢が食い込んでくるという図式が鮮明になった。
■スポコンブームがシビック人気に拍車をかけた?
アメリカ市場でのシビックの歴史のなかで、もうひとつ、忘れてはならない出来事があった。
1990年代末から2000年代頭にかけての短期間に集中的に起こった、日系チューニングカーブームだ。日本では、スポコン(スポーツコンパクト)ブームとも呼ばれた社会現象だった。
そもそもは、韓国系マフィアが親から払い下げされたシビックやインテグラなどを持つ若者を対象に、違法な公道ドラッグレースや、未成年者も飲酒などを行うショーと呼ばれるアンダーグラウンド系のイベントを開催し、その刺激的な内容に魅了された。
こうしたドキュメンタリー要素をフィクション化したのが、映画『ザ・ファスト・アンド・ザ・フューリアス』(邦題:ワイルドスピード)だった。
そんなコアなマーケットが起爆剤となり、当時すでに日本では衰退基調にあったチューニング関連ビジネスがアメリカに続々と上陸していく。
ドラッグレースやショーは徐々に健全化されていったが、当時のホンダはこの分野に対して「一定の距離」を保ちながら接していた印象がある。
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