■オイルショックのなか、「市民」の名を持つ小型車の出現はアメリカ人に大きなインパクトを与えた
そこに、排気ガス規制、さらにはオイルショックによるガソリン価格の急騰やガソリン供給不足が追い打ちをかけ、アメ車は一気に窮地に追い込まれる。
そうしたなか、小型で高性能な日本車にアメリカでスポットがあたる。スポーツカーでは初代240Z(S30フェアレディZ)が、アメリカンマッスルカー慣れしていた多くのアメリカ人の心をつかんだ。
一方、大衆車としては、「市民」というネーミングどおり、シビックがアメリカ人に対して大きなインパクトを与えた。親しみやすいデザイン、環境への配慮、低燃費などを併せ持つ「ホンダマジック(魔法)」まで言えるほどの、まさにエポックメイキングだった。
そうした初代シビックの商品イメージがそのまま、ホンダのブランドイメージ、そして企業イメージへとつながっていったといえるだろう。
その後、初代シビックオーナーが第二世代、第三世代へと乗り継ぎ、そうしたシビックが彼らの子供たちに払下げされていく。これと並行して、シビックからアップグレードを望む買い換え需要としては、ひと回り大きなアコードへとユーザーは自然と誘導されていった。
こうして1980年代から1990年代にかけて、アメリカ市場の中核であるC/Dセグメントでは、
シビック&アコードを軸に、カローラ&カムリが対抗し、そこにトーラスなどアメリカ勢が食い込んでくるという図式が鮮明になった。
■スポコンブームがシビック人気に拍車をかけた?
アメリカ市場でのシビックの歴史のなかで、もうひとつ、忘れてはならない出来事があった。
1990年代末から2000年代頭にかけての短期間に集中的に起こった、日系チューニングカーブームだ。日本では、スポコン(スポーツコンパクト)ブームとも呼ばれた社会現象だった。
そもそもは、韓国系マフィアが親から払い下げされたシビックやインテグラなどを持つ若者を対象に、違法な公道ドラッグレースや、未成年者も飲酒などを行うショーと呼ばれるアンダーグラウンド系のイベントを開催し、その刺激的な内容に魅了された。
こうしたドキュメンタリー要素をフィクション化したのが、映画『ザ・ファスト・アンド・ザ・フューリアス』(邦題:ワイルドスピード)だった。
そんなコアなマーケットが起爆剤となり、当時すでに日本では衰退基調にあったチューニング関連ビジネスがアメリカに続々と上陸していく。
ドラッグレースやショーは徐々に健全化されていったが、当時のホンダはこの分野に対して「一定の距離」を保ちながら接していた印象がある。
■アメリカでは独自の歴史観を培ってきたシビック、日本にも独自のシビック文化が育って欲しい!!
このブームも2000年代半ばにはすっかり消えてしまうのだが、この時の刺激的なホンダというイメージが、ミレニアル世代の記憶に残っており、それが先のインテグラ復活につながったとも言える。
このように、アメリカ人にとってのシビックには、ホンダに対する商品の安心安全や、先進的な技術に対する信頼のほかに、アメリカ文化のなかで培われたシビック独自の歴史観があるように思える。
日本でも、1970年代から1990年代あたりまでは、シビックが日本のクルマ文化の中核的存在だったが、グローバルカーとして進化するなかでさまざまな意味で大衆車の領域から外れていってしまったのかもしれない。
販売台数で今後、日本のシビックがアメリカのように年間数十万台規模になることはないだろう。日本には日本なりのシビック文化が継承されることを望みたい。
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