筆者が見た、感じた2代目クラウンの思い出と偉業
1962年に、クラウンは2代目へモデルチェンジする。その主査も中村氏である。初代トヨペットクラウンは、外観が第二次世界大戦前の影響を受けた姿だった。
日野ルノーやいすゞヒルマンも、前後のタイヤを覆うフェンダーが独立したような姿を残し、そこが戦前の設計という印象を与える。この点は、戦後に本格的な生産を開始したドイツのフォルクスワーゲン・タイプ1(通称ビートル)も同様だ。
2代目クラウンになると、前後フェンダーは客室を含む車体全体を一体化させた造形となり、戦後の新しい時代の乗用車の姿になっていく。そして、クラウンの対抗馬として日産セドリックが1960年に登場する。以来、クラウンとセドリックは永年にわたる競合として切磋琢磨していくことになる。
2代目のクラウンは、私の叔父が乗っていた。戦後20年が経ち、ようやく個人でも自家用車を持てる時代がはじまろうとしていた。しかしまだ誰もが自家用車を持てたわけではない。親戚のなかでも叔父は無類のクルマ好きで知られ、以後、歴代クラウンを乗り継いでいった。拙宅は、自家用車を持てるほど裕福ではなかったが、叔父が新車を買い替えるたびに自分のことのように勇躍し、恐る恐る叔父に新車を見せてほしいとせがんだことを思い出す。
2代目クラウンで忘れられないのは、クラウンエイトと呼ばれた3ナンバー車の追加である。2代目発売から約1年半後に、車体を前後左右それぞれ拡大し、V型8気筒エンジンを搭載した上級車種であった。
当時はまだ、DOHC(ダブル・オーバー・ヘッド・カム)とかターボチャージャーといったエンジンの高性能技術が一般的になる前であり、直列4気筒エンジンがせいぜいであった。そのようなとき、V型8気筒エンジンを搭載し、見るからに大柄なクラウンエイトは、高性能かつ周囲を圧倒する存在感があった。
これも、拙宅近くの銀行に横付けされていたことがあり、その印象は強烈だった。2代目のクラウンは、そもそも横に平べったく見える外観であり、それがさらに拡幅されることで、一見しただけで威風を覚えさせたのであった。
直列6気筒エンジンでは、日産と合併する前のプリンスが、グロリアに搭載しグロリア・スーパー6(スーパーシックス)として販売した。その排気量を2.5リッターに拡大したのがグランド・グロリアで、皇室に納入されたという。これに対しクラウンエイトは、当時の佐藤栄作総理大臣の公用車になったとされる。
高度経済成長期、そして日本を代表するセダンへ成長していく「クラウン」の挑戦
もはや戦後ではないとの言葉が生まれ、日本が世界に存在感をもたらす経済成長が進んだのは1950年代後半から70年代のことだ。実質経済成長率が10%前後(現在は1%ほど)で推移した高度経済成長期と呼ばれる時代は長く、あわせて日本のモータリゼーションも発展していくことになる。
1969年に東京オリンピックが開かれ、それへ向けて名神や東名の高速道路が建設され、東京には首都高速道路がつくられた。東海道新幹線も開通する。
大衆車として、66年に日産サニーが生まれ、続いてトヨタ・カローラが誕生する。この両車も競合として永い歴史を刻んでいく。しかし、クラウンは常に自家用車の頂点として人々に認識され、80年代の7代目では、いつかはクラウンという言葉まで生み出される。
プリンス自動車は64年に日産と合併し、グロリアはセドリックと共通の機構で生産されるようになっていった。そしてクラウンとセドリック/グロリアは永年にわたり競合として比較された。
しかし日産は、セドリック・グロリアの車名を止め、2004年にフーガへ転換する。ルノーとの提携を通じ、世界戦略のなかでの決定であっただろう。だが、クラウンの対抗馬という認識は薄れていった。
クラウンは、トヨタの最上級4ドアセダンとしてだけでなく、国内における上級の4ドアセダンとして存在するようになった。
しかし今回、16代目ではじめてクロスオーバー車として登場することになった。4ドアセダンも後日発売される予定だが、純国産車にこだわり67年前に誕生したクラウンは、一つの節目を迎えたといえるだろう。
そして16代目は、グローバルカーとして海外でも販売されることになる。クラウンの新しい挑戦がはじまった。
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