2022年7月15日、新型クラウンが発表された。1955年1月に初代が登場してから67年半、日本の代表的な高級車として活躍してきたクラウンが、いよいよ16代目へとフルモデルチェンジを遂げる。長く日本国内を中心に開発、販売されてきたクラウンは、この新型からグローバルモデルとして生まれ変わることになった。その開発の経緯を説明するため、新車発表記者会見で、豊田章男社長は「クラウンの物語」を語った。以下、発表記者会見でのスピーチ全文(最小限の編集を加えたもの)をお届けします。
文/ベストカーWeb編集部、写真/TOYOTA、ベストカーWeb編集部
■「クラウンの物語」
豊田でございます。本日は、新型車の発表会にもかかわらず、皆様には、入り口で15代のクラウンを見ていただきました。それはなぜか。本日は、「歴代主査とクラウンの物語」から始めさせていただきます。
「クラウン創業期」(初代~3代目)
クラウンの原点は、トヨタの創業までさかのぼります。今から90年前、豊田喜一郎は自動車事業への挑戦を決意いたします。その根底には「大衆乗用車をつくり、日本の暮らしを豊かにしたい」という「思想」がありました。
創業から15年が経った1952年1月、ようやく念願の国産乗用車づくりが始まります。車名の「クラウン」は、喜一郎の発案で決まっていたそうです。初代主査に任命されたのが、中村健也さんでした。
中村さんは、強い使命感のもと、クラウンの開発に全身全霊をささげます。「いいと思うことは、たとえ周囲に反対されてもやる」。そんな強い信念を持ち、前輪ダブルウィッシュボーンサスペンションをはじめ、最新技術のすべてをつぎ込みました。
発売当時を振り返って、中村さんはこう言われています。
「日本中がお祭り騒ぎのようでした。まずいところを謝ると、『小さな傷だ。すぐ直る』とお客様の方がなぐさめてくださった。国中をあげて僕の尻押しをしてくれた感じでした」
1957年には、日本車として初めて、オーストラリアでの海外ラリーに参戦し、その後、乗用車で初となる米国輸出にも挑戦いたしました。
そして1959年、乗用車専用の元町工場を立ち上げます。乗用車の黎明期、年間6万台の「量産工場」を建てることは、大きな決断でした。
戦後のトヨタにおいて、すべての挑戦は、初代クラウンから始まったのです。まさに、日本という国が豊かになっていく勢いを象徴していたクルマ。それが初代クラウンだったと思います。
そして、「マイカー元年」の翌年、1967年に3代目が発売されます。中村さんのもとで、2代目の開発にたずさわった内山田亀男さんが主査になりました。内山田さんは、駐車場のクルマを観察する中で、ボディの色がだんだん明るくなってきたことに気づかれたそうです。
そこで、マイカーとして乗るお客様が増えることを見越して、白いボディカラーを設定。3代目は「白いクラウン」と呼ばれ、モータリゼーションをけん引していくことになります。
ここまでが、いわばクラウンの「創業期」です。
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