■「クラウンはお客さまの先を行きすぎてはいけない」
(2)「クラウン成熟期」(4代目~8代目)
そこから20年は、お客様が求める「クラウンらしさ」を確立する時代です。
1971年にモデルチェンジした4代目では、外国車との競争激化を見越して、イメージを一新する大胆なデザインに挑戦いたしました。しかし、品質トラブルの影響もあり、販売面で大苦戦を強いられます。「クラウンは、決してお客様の先を行きすぎてはいけない」。それが4代目の残した教訓です。
それ以降、歴代の主査たちは、「革新への挑戦」と「お客様の期待」、この両立に苦悩しながらクラウンの開発を進めることになります。
そんなクルマづくりが7代目、8代目で実を結びます。開発を担当したのは、今泉研一さんでした。
「いつかはクラウン」。
そう語り継がれる7代目によって、クラウンは、日本の「ステータスシンボル」になり、8代目では、歴代最高の販売台数を記録いたします。
私は、1984年にトヨタに入社いたしましたが、最初の職場は元町工場でした。8代目のモデルチェンジの生産準備にも携わりましたが、みんなが誇らしげに仕事をしていたことを、今でも覚えております。
1980年代、クラウンは、名実ともに日本を代表するフラッグシップとなりました。しかし、これをピークに、9代目以降、クラウンは苦難の時代に突入していきます。
■セルシオの登場、輸入車の攻勢
(3)「クラウン変革期」(9代目~15代目)
まず、トヨタにおけるクラウンの位置づけが変わります。
1989年、トヨタは、レクサスの最上級車「LS」を、「セルシオ」として日本にも導入いたしました。「いつかはクラウン」。その立ち位置が変わるという大きな転換点を迎えます。
そして、1991年のバブル崩壊で日本経済は不況に陥り、高級車需要は低迷いたしました。さらに、輸入車との競争も激しくなってまいります。
この逆風の中で、登場したのが9代目と10代目です。開発を担当した渡辺浩之さんは、「いつかはクラウン」の今泉さんのもとで腕を磨かれていました。酸いも甘いも知り尽くした渡辺さんの時代から、クラウンは「変革期」に入ってまいります。
2000年代に入ると、トヨタは海外展開を加速し、規模拡大を追求してまいります。徐々に、売れるクルマ、売れる地域が優先されるようになってまいりました。
クラウンの販売は、右肩下がりの状況。「このままでは、いつかクラウンは無くなってしまう」。そんな危機感の中で、2003年、12代目を迎えます。
開発を担当した加藤光久さんは、「おれの代でクラウンをつぶすわけにはいかない」、その一心で、クラウンの再構築に挑戦。世界基準の走行性能を目指し、プラットフォームやエンジンをゼロから開発いたしました。
ちょうどその頃、私は、師匠である成瀬さんのもとで、運転訓練を始めておりましたので、「ゼロ・クラウン」の「走りのよさ」を、自らのセンサーで感じたことを今でも鮮明に覚えております。
この「ゼロ・クラウン」により、「走りのクラウン」という新たな方向性が見えてまいります。
2008年には、リーマン・ショックが発生。赤字転落の中で、私が社長に就任いたしました。会社としては厳しい状況でしたが、クラウンの変革に向けた挑戦は続けてまいりました。
「一目見て、欲しい! そう思えるクルマにするためなら、何を変えてもいい」。
そう言って開発陣の背中を押しながら、デザインを大きく変え、プラットフォームも刷新し、さらにニュルブルクリンクで走りも鍛えてまいりました。そこから、14代目の「リボーン・クラウン」、15代目の「コネクティッド・クラウン」が生まれました。
この20年、クラウンは、時代の変化と闘いながら、進化を続けてまいりました。
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