ここ数年フルモデルチェンジまでのサイクルが長期化していることもあり、規模の大小を問わずモデルサイクル途中で行われるマイナーチェンジの重要度が増している。
過去を思い出すとフルモデルチェンジから1,2年のスタートダッシュに失敗しながらも大規模なマイナーチェンジをきっかけに販売が大きく盛り返したクルマというのもあり、当記事ではそんなクルマたちを振り返る。
(※一部、登場年と「代目」が間違っておりましたので修正いたしました。ご指摘いただきありがとうございました。2019.10.22 22:30)
文:永田恵一/写真:TOYOTA、HONDA、NISSAN、MAZDA、SUBARU
トヨタクラウン(9代目)
デビュー:1991年10月
ビッグマイナーチェンジ:1993年8月


9代目クラウンの先代型となる1987年登場の8代目モデルはクラウンらしいオーソドックスな仕上がりだった。
それに対し同時期の宿命のライバルであるセドリック&グロリアのY31型はスポーティなグランツーリスモの設定や3ナンバー専用ボディであの255馬力の3ℓ、V6DOHCターボによる強烈な加速を持つシーマの登場により勢いがあり、王者クラウンは苦戦を強いられていた。
1991年10月にクラウンは9代目モデルにフルモデルチェンジされ、この時に主力となるロイヤル系とセルシオの中間の車格となるマジェスタとスポーティセダンのアリストを加え、同じ年にY32型にフルモデルチェンジされたセドリック&グロリア、シーマを迎え撃った。
しかしロイヤル系は丸みを帯びたデザインで、クラウンらしい押し出しに欠けるものだったことが原因で販売は伸び悩み、Y32型セドリック&グロリアを引き離すことができなかった。

そんな事情もあり9代目クラウンは1993年8月にビッグマイナーチェンジを行い、中身はそれほど変わらなかったが、フロントマスクは押し出しのあるものに、リア周りも風格を感じるクラウンらしいものに大きく変更。
販売も盛り返し、9代目クラウンは危機を脱した。当時はクラウンはかくあるべき、というユーザーのイメージがあり、それに戻して復権。
ただ、クラウンシリーズのロイヤル系はゼロクラウン登場まで冒険を避けたクルマ作りになったのも事実。
ホンダインテグラ(2代目)
デビュー:1993年5月
ビッグマイナーチェンジ:1995年8月

シビックとアコードの間の車格に位置し、3ドアクーペと4ドアハードトップを持つインテグラは1993年5月に2代目モデルにフルモデルチェンジされた。
2代目インテグラは車格に沿って1.8Lエンジンを搭載し、シビックに対し各部の質感も若干向上しているなど、決して悪いクルマではなかった。
しかし如何せん丸目4灯ヘッドライトというクセのあるフロントマスクが日本人には受け入れられず、販売は振るわなかった。
そこで1995年8月に行われたビッグマイナーチェンジではほとんどのグレードのヘッドライトをオーソドックスな形状に変更。

さらにこの時に1.8L、VTECエンジンを搭載するSiRにパワートレーン、足回り、インテリアなど広範囲に渡りレーシングカーのようなチューニングを施したタイプRを追加。
タイプRは当時の若者やクルマ好きに大きな衝撃を与えたいわゆるホンダらしいクルマだったにの加え、4ドアハードトップにも設定されファミリーカーとして使えないこともなかったため、一部手作業となる部分があったエンジンの生産に限界があったという事情もあり生産が追い付かなるほどの人気車となり、2代目インテグラの復調に大きく貢献した。

日産プレーリー(2代目)
デビュー:1988年9月
ビッグマイナーチェンジ:1995年8月

プレーリーというクルマは日本における今でいうミニバンの先駆車ながら初代、2代目モデルともに詰めが甘いところが多々あり、後発のシャリオなどに市場を奪われ、存在感が薄かった。
2代目プレーリーは販売が振るわなかったこともあったのか、なかなかフルモデルチェンジできず、登場から約7年が経過しいつフルモデルチェンジされてもおかしくない1995年8月にビッグマイナーチェンジを実施。
このビッグマイナーチェンジでは車名をプレーリージョイに変え、エンジンは古いCA型からこの時には熟成が進んでいたSR型に変更され、スタイルもボクシーなものとなった。
加えてリアのオーバーハングの延長とリアサスペンションの形式も変更されたことによりサードシートの居住性も大幅に向上し、このビッグマイナーチェンジの内容は確かにフルモデルチェンジに近いものだった。

当時の日本は1994年に初代オデッセイが登場するなどミニバンブームが始まった時期だったこともあり、プレーリーはプレーリージョイにビッグマイナーチェンジされても決して他車に対するアドバンテージがあるクルマではなかったが、ミニバンブームという背景が強い追い風となり販売は激増。
成功したビッグマイナーチェンジではあった。
マツダMPV(2代目)
デビュー:1999年6月
ビッグマイナーチェンジ:2002年4月

FRだった初代モデルからFFのラージミニバンとなった2代目MPVの初期モデルはマツダがドン底だった時期に登場したこともあり、フォード製の2L、直4と2.5L、V6が設定されたエンジンは後者でも力不足で燃費も悪い、ボディや足回りはグニャグニャというひどいクルマだった。
それでも広さと2.5L、V6でも250万円という定価に加えタップリ値引きもされるという安さでそれなりに売れていた。
そんな状況を打破すべく2代目MPVはマツダに復活の兆しが見えてきた2002年4月にビッグマイナーチェンジを実施。
このビッグマイナーチェンジではエクステリアだけでなく、エンジンはマツダ製で新開発の2.3L、直4とフォード製なのは同じながら大改良された3L、V6への変更、ボディ剛性の大幅な向上、それに伴うサスペンションの見直しなどが施された。

結果ビッグマイナーチェンジ後の2代目MPVは快音を響かせる2.3L、直4でも十二分な動力性能を確保し、シャッキとしたハンドリングや乗り心地も持つというビッグマイナーチェンジ前とは別のクルマのように生まれ変わった。
それにも関わらずお買い得な価格はそのままと、ビッグマイナーチェンジ後のMPVは総合的にコストパフォーマンスが高いラージミニバンという自分の居場所を見つけることに成功。同時にマツダ復活の狼煙を挙げる存在にもなった。
スバルインプレッサWRX STI(2代目)
デビュー:2000年10月
ビッグマイナーチェンジ:2002年11月&2005年6月


2代目インプレッサWRX STIの初期モデルはヘッドライトが丸目となったフロントマスクが万人向けではなかった。
加えて走りもボディ剛性の飛躍的な強化や強靭な6速MTの搭載などにより質感は先代モデルに対し劇的に向上した代わりに、大幅な重量増という不利もあり速さでは宿敵であるランサーエボリューションに対し劣勢だったのも否めなかった。
この状況を変えるべくスバルは2002年11月にインプレッサシリーズ全体にビッグマイナーチェンジを行った。
このビッグマイナーチェンジではフロントマスクを涙目と呼ばれるもの変更したのが目立つが、特にWRX STIではタービンの変更や等長エキゾーストの採用による絶対的な動力性能の向上とパワーバンドの拡大、前後駆動力配分を電子制御で行うDCCD(ドライバーズコントロールセンターデフ)の改良を含めたコーナリング性能とトラクションの向上などを行い、戦闘力を一気に高めた。

結果モータースポーツを含めランサーエボリューションとの見応えある戦いが再び見られるようになり、インプレッサ全体の販売も上昇傾向となった。
さらに2代目インプレッサシリーズは2005年6月にフロントマスクを鷹の目と呼ばれるものに変更した2回目のビッグマイナーチェンジなど毎年のように改良を行い、WRX STIの性能向上など約7年間のモデルサイクルで完熟といえるくらいクルマを仕上げ切った。
