■待望のエンジンを入手し、レストアが完成する
今回走ったP-5は伊丹の倉庫に眠っていたものだが、残念ながらエンジンがなく、ボディだけのレストアが進められていたが、2018年8月23日に京都府綾部市の山本自動車からエンジンを譲り受け、ダイハツ技術研究会が、完全レストアにこぎつけたものだ。
ダイハツ技術研究会は発足1970年、P-5の成功から50年の節目にあたることからP5の走行にこだわり、10月10日に晴れの日を迎えることになった。
もちろん本来の仕事ではなく就業時間を終えてからの活動で、困難も多かったというが、先人たちのチャレンジスピリットを再び学びたいという思いで約35人がR92B型エンジンと向き合い、充実の2カ月間をおくったという。
今回、奥平総一郎社長もステアリングを握り、200mほどを加速した。「軽くて気持ちいい。もっと乗りたかった。今回P-5のレストアを通してみんなの気持ちがひとつになったことがうれしい」とコメント。
ダイハツ技術研究会は1964年の東京五輪の際にギリシャ・オリンピアから東京までの聖火コース約1万8000㎞を走破したコンパーノ・ベルリーナのレストアを次の目標に活動を続けていくという。期待して待っていよう!
■ダイハツのレース活動を振り返る!
ダイハツのレース活動は1965年船橋サーキットで行われた全日本自動車クラブ選手権へのコンパーノ・スパイダー参戦に始まる。
次に空力面での不利を補うためにコンパーノ・ベルリーナをベースとし、フロントノーズを丸くし整流効果を上げたP-1が登場する。
翌1966年にはアヒルを思わせるユーモラスなボディの「ピー子ちゃん」ことP-3が誕生。当時としては最先端の1.3L、DOHC16バルブエンジンを搭載する本格派だった。
1966年5月の第3回日本グランプリでは吉田隆郎選手のP-3が総合7位、1967年7月の鈴鹿12時間自動車レースは、武智勇三選手/矢吹圭造選手組のP-3が総合4位に入賞している。
そしてP-5が誕生した1967年、トヨタの傘下に入ることが決定する。1967年5月の第4回日本グランプリでは吉田隆郎選手、久木留博之選手のP-5は残念ながら予選落ち。
翌1968年5月の日本グランプリではゼッケン15番、吉田隆郎選手のP-5が総合10位に入った。そのほか、参戦した3台はゼッケン14番の久木留博之選手のP-5が15位、ゼッケン16番、武智勇三選手のP-5が16位、ゼッケン12番の矢吹圭造選手のP-5はリタイアを喫する。
以下、この日本グランプリに出場したマシンを見てほしい。いかに強豪揃いだったか分かるだろう。
■1968年5月2〜5月3日、日本グランプリ(富士スピードウェイ、曇、ドライ)
決勝出走台数:25台、完走台数:16台
総合1位/ゼッケン20番、北野 元、ニッサンR381、周回数80、2:37:05.57
総合2位/ゼッケン28番、生沢徹、ポルシェカレラ10、周回数79、2:37:24.65
総合3位/ゼッケン21番、黒沢元治、ニッサンR380、周回数78、2:37:12.97
総合4位/ゼッケン22番、横山 達、ニッサンR380、周回数77、2:38:00.02
総合5位/ゼッケン24番、大石秀夫、ニッサンR380、周回数77、2:38:11.05
総合6位/ゼッケン19番、砂子義一、ニッサンR381、周回数77、2:39:05.15
総合7位/ゼッケン29番、片平 浩、ポルシェカレラ6、周回数76、2:38:07.67
総合8位/ゼッケン5番、大坪善男、トヨタ7、周回数75、2:37:51.21
総合9位/ゼッケン3番、鮒子田寛、トヨタ7、周回数74、2:37:12.42
総合10位/ゼッケン15番、吉田隆郎、ダイハツP-5、周回数70、2:38:04.30
総合11位/ゼッケン35番、明珍和夫、デイトナコブラ、周回数66、2:38:58.35
総合12位/ゼッケン33番、鈴木八須男、マクランサ、周回数63、2:38:58.35
総合13位/ゼッケン31番、高木豊和、フェアレディ、周回数61、2:39:30.77
総合14位/ゼッケン2番、福田幸雄、トヨタ7、周回数58
総合15位/ゼッケン14番、久木留博之、ダイハツP-5、周回数57、2:39:47.33
総合16位/ゼッケン16番、武智勇三、ダイハツP-5、周回数56、2:38:16.79
リタイア、ゼッケン12番、矢吹圭造、ダイハツP-5、周回数30
翌1968年6月の全日本鈴鹿自動車レース(周回数26)では久木留博之選手が総合5位、吉田隆郎選手が6位に入る。
同年9月に開催された「鈴鹿1000kmレース」では、ゼッケン14番のP-5(矢吹圭造選手/久木留博之選手)がトヨタ7(福澤幸雄選手/鮒子田寛選手)、チュードルカレラ906(高野正也選手/米山二郎選手)に次ぐ総合3位を勝ち取った。
さらに翌1969年5月31〜6月1日に開催された「鈴鹿1000㎞レース」では、チュードルカレラ6(津々見友彦選手/米山二郎選手)に次ぐ総合2位(ゼッケン10番、久木留博之選手/矢吹圭造選手)に入る快挙を成し遂げた。ちなみに周回数およびタイムは、カレラ6が167周、7時間11分23秒2、P-5が162周、7時間13分31秒3だった。
この2位がP-5のこれまでの最高位となり、このレースが事実上、最後のワークス活動によるレースとなった。
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