■『1980年代前半の編集部は“何でもあり”の勢いがあった』大井貴之
●自動車評論家・レーシングドライバー/在籍期間:1980~1988年
創刊当時、ベストカーガイドは芸能人がガンガン登場する異色の自動車雑誌だった。巻頭グラビアこそなかったものの、永遠のアイドル「アグネス・ラム」が表紙に登場したこともある! 確かあったと思ったというのも、ベストカーガイドの創刊編集長の高橋氏は後にスコラを創刊する講談社のやり手エディター。編集局長は石坂浩二と浅丘ルリ子の新婚旅行を密着取材したという後々のベストモータリングの生みの親となる正岡氏。芸能界とのパイプは太かったようだ。
そんなベストカーガイド編集部との関わりは1980年の秋。大井くんは写真学校で勉強中の身だったが、若手カメラマンとして誌面を飾ることになった。被写体はエキゾチックなナイスバディであっという間に人気者となった…初代RX-7、レビン/トレノやランサー、スターレットも走る大学自動車部が主催するラリー。どうやら他にカメラマンが見つからなかったようだ。活版ページネタだったので誌面を飾ったというか埋めたというか…というのがスタート。しかし、その時の写真が認められたのか、常に編集部の仕事を優先する姿勢が便利だと思われたのかは不明だが、谷田部テストコースでのゼロヨン・最高速や筑波サーキットのタイムアタック、新車試乗会などベストカーガイド専属カメラマンとなった。しかし、クルマ好きにつけ込まれいつの間にやら編集部の雑用丁稚奉公という毎日。「音羽の不夜城」と呼ばれていた時代。今ならワンクリックで済む話が、すべて手仕事だからね~。それはもう超ハード。と言いながら、寝る間を惜しんで遊び回ってたから万年疲労。
忘れもしないのが、恐怖の感熱紙事件! 竹平さんからFAXで届いた手書き原稿を一休みしてから赤入れしようと机に突っ伏し仮眠。目を覚ましたらスタンドの下に置いた原稿が真っ黒になっていたという大惨事。皆さん、感熱紙には注意しましょう。
【番外コラム】キャリアだけは長い現役編集部員3名がベストカーの歴史を振り返る
アルバイト時代も含めると30年以上。45年の歴史のうち7割近くの期間ベストカーの制作に携わってきた3人が、その歴史を振り返る。
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イイボシ/俺らみんな、バイトする前からベストカーの読者だったわけじゃない? 何が魅力だったんだろ。
ウメキ/数ある自動車雑誌のなかで一番パワーがあったから。ま、一番下らないことを必死でやってたってことだね。
イチハラ/大学では少年ジャンプ、少年マガジンとベストカーをみんなで回し読みしてました。
イイボシ/徳大寺(有恒)さん、ガンさん(黒沢元治氏)、竹平(素信)さんの評論家陣は強力だったよね。ガンさんなんかドライビングの神様だもの。
ウメキ/それと独特の企画ね。今でも覚えている読者時代の企画がたくさんあって、スピードガンで街を走るクルマやパトカーの速度を測ったりしてた。あれ確か国沢さんがやってたんじゃない? それとめずらしく東京に雪が降ったっていうんで、みんなで愛車を持ち寄って一般道でラリーみたいに走ったり。「東京モンテカルロラリー」とかいうタイトルだったと思う。今じゃ絶対できないよねぇ。
イチハラ/レーシングカーやラリー車などのびっくりするクルマの試乗も多かったですよね。
イイボシ/得意だったね〜。F1とかF3000とか、なんでも乗ってた。
ウメキ/あと「よくやるな」と思ったのがタクシーの谷田部フルテスト。電話でテストコースにタクシーを呼んで、料金メーター倒してコースに入れて、運転手さんに全開でバンクを走ってもらうという。
イイボシ/とにかくパワフルだった。スタッフがみんな若かったしね。
イチハラ/僕らが入ったあとも、新車が出たら必ず谷田部でゼロヨンをやってましたね。
ウメキ/毎号必ずだから、月2回。スポーツカーがあれば筑波サーキットのタイム計測もセットでやってた。
イイボシ/朝が早くて大変なんだけど、寝ないでそのまま行ってたよな。
ウメキ/バイトの頃は早朝谷田部、筑波に行って、そのまま会社に泊まって一週間後の谷田部、筑波が終わってやっと帰れるなんてこともあった。
イイボシ/毎号、会社に3〜4泊してたね。着替えを持って出社してたよ。
イチハラ/本当に不夜城でしたね。それがベストカーの「普通」だったから、今は逆に「え? 会社に泊まってないの?」って外部の人に残念がられる(笑)。
イイボシ/「働き方改革」恐るべしですよ。
●三本和彦さんも前澤義雄さんも
ウメキ/レースの現場に行って、アポなしでレーサーの体力測定もよくやった。あれ、最初に長谷見さんや星野さんなどの大御所ドライバーにやってもらうと、あとの話が早いんだよ。「星野さんはやってくれました」っていうと断るドライバーはいない(笑)。
イチハラ/夏の水着GAL特集も定番でしたね。あれも地元の有力者に先に話しておくとスムーズに取材できるんです。
イイボシ/イチハラはネタの宝庫だよね。会社で寝ていてズボンを脱いでないのに履いてたパンツがなくなったとか、文章を広島弁に変えるアプリを使って遊んでたら、そのまま入稿しちゃって原稿が全部広島弁になってたとか。
ウメキ/勝股さん(当時の編集長)に「お前、呉出身やったもんな」って言われてた(笑)。
イイボシ/寝ぼけてレース結果の表を作ってたら、ドライバー名が「豪州アラビア」になってたこともあった。なんなん? あれ。
イチハラ/寝ながら仕事できちゃうのがよくない。
ウメキ/実寸大スクープも名物企画だったね。
イイボシ/今は亡きマッド杉山さんに頼み込んで、安い中古車を改造してもらう。イヤだイヤだ言いながら、結局は作ってくれる杉山さんは凄くいい人だった。
ウメキ/模型でスクープもしたね。佐原輝夫さんにR33スカイラインとS14シルビアを作ってもらった。完全にワンオフなんだから贅沢な話だよ。
イチハラ/海外の大物ドライバーにも出てもらいましたね。モトGPのロッシとF1のフレンツェンに「クルマの達人になる」と書いた紙を持ってもらって撮影したり。
イイボシ/マキネン(WRC)に神社の神主さんになってもらったこともあったね。
ウメキ/連載もいろいろあったよねぇ。
イイボシ/徳さんの「俺と疾れ!!」をずっと担当させてもらったな。あと、前澤義雄さんと清水草一さんの「デザイン水掛け論」も面白かった。
イチハラ/一番長い連載はテリー伊藤さんですよね。確か1994年からだから28年です。
イイボシ/あんなに忙しい人が1回も休まずだから凄いよね。テリーさんもうちの仕事を凄く楽しんでくれてるみたい。
ウメキ/2005年前後から三本和彦さんにも登場してもらえるようになったね。
イイボシ/三本さんに出てもらえるようになったのはありがたかったね。庶民の味方であり、業界のご意見番でもある。話が本当に面白かった。
イチハラ/三本さんも編集部の若造たちと仕事ができることを喜んでくれてましたよ。
イイボシ/最近でいえば水野和敏さん。クルマのことなんでもわかっちゃう。水野さんみたいなクルマの評論、今までなかったよね。
ウメキ/実際にクルマを開発して、レースでも戦ってきた人だからね。
●音羽の不夜城は変わったけれど
イチハラ/2000年代に入るとゼロヨンより燃費のテストが増えていきましたよね。
ウメキ/読者のニーズがそっちに移ったからね。
イイボシ/よく覚えているのはレクサスGSのハイブリッドが出た時に、編集部員全員が順番に山中湖まで往復して燃費を計測したこと。あんなに走らなくても正確な燃費は測れたと思うけど、まぁ燃費テストもエンタメにしちゃうってことだな。
イチハラ/ギャランGDIが出た時は無給油で鹿児島までいけるかってやりましたよね。
ウメキ/行ったね〜。小倉のあたりでさすがに給油したけど。行ったら当然帰ってこなきゃならない。俺、運転好きだから楽しかったよ。
イチハラ/2010年代に入ってからはイベントをよくやるようになりました。
ウメキ/東京オートサロンにブースを出したりね。
イイボシ/凄い数の読者の皆さんに来てもらって、盛り上がったよねぇ。
イチハラ/ラリージャパンにも参戦しましたしね。
イイボシ/(ボソッと)でもイベントって儲からないね。
ウメキ/いやいや、それでもベストカーを盛り上げるためにやっていかないと!
イチハラ/ですね。それにしても「音羽の不夜城」も最近は変わりましたよね。徹夜したり会社で寝泊まりすることなんてなくなりましたから。
イイボシ/あの頃に戻れと言われたら、さすがに断る(笑)。でも、あの狂気みたいな雰囲気が雑誌にパワーを与えていた気もするよな。今の時代に合ったやり方でパワフルな本を作っていかないとね。
イチハラ/次は50周年です。
イイボシ/「面白くて役に立つ」がベストカーの根幹だからね。読者に喜んでもらえる本をこれからも頑張って作っていきましょう。
ウメキ/俺ら3人、50代後半になったけど、編集部のみんなとまだまだ頑張るよ!
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