自動車界のみならず、世界中を大きく揺るがせたエアバッグメーカー、タカタによる欠陥エアバッグのリコール問題。
ご存じのように2017年6月26日、経営危機を迎えたタカタは民事再生法の適用を東京地裁に申請。その負債総額はなんと1兆7000億円にのぼり、製造業としては戦後最大となる大型倒産の結末に。
自動車メーカーにとってもリコール費用の大半が回収不可能となる見込みだが、本企画では今回の〝タカタSHOCK〟から浮かび上がる課題を検証し、今後への道筋を追ってみることにした。
(※メイン画像はイメージ写真です)
文:ベストカー編集部 写真:Shutterstock
ベストカー2017年8月26日号
■創業1933年、織物製造工場として設立
まずはタカタがどのような道程を辿ってエアバッグのトップメーカーにまで成長し、リコール問題から今回の破綻へつながっていったのかを簡単に紹介しておこう。
タカタの創業は1933年。創業者の高田武三が滋賀県彦根市に織物製造のための高田工場を設立したのが始まりだった。
戦後、米国での研究に触発されてパラシュート技術を応用したクルマのシートベルト開発に着手。1956年には高田工場を法人化し、1960年には日本初の2点式シートベルトを製造、販売する。
1962年には当時の運輸省運輸技術研究所、警察庁科学警察研究所の協力で日本初のダミーを使用した本格的な実車衝突実験をマスコミにも公開。翌63年には日本で初めて量産車にシートベルト装着車が登場し、同社製品が採用された。
1974年に2代目の高田重一郎前社長が就任し、1976年よりエアバッグの調査研究を開始。1983年にはタカタに商号を変更し、同年米国運輸省のフリートテスト用高速パトカー800台に同社エアバッグが採用された。
1987年12月から本格的にエアバッグモジュールの量産を開始。以後、90年代にかけてシンガポールやメキシコ、ドイツ、ブラジルなど世界中に拠点を開設し、タカタはエアバッグ世界市場でシェア約2割を占める世界第2位メーカーにまでのし上がった(1位はスウェーデンのオートリブ社で約5割のシェア)。
成功した日本企業の代表格として取り上げられることもあった。
■アメリカやマレーシアで死亡事故が発生
そんな超優良企業、タカタの〝成功物語〟に影を落とす出来事が頻発するようになったのは2008年。
エアバッグの重要な部品である膨張ガスを発生させるインフレーター関連の不具合が相次ぎ、米国やマレーシアではインフレーターの金属片による死亡事故が発生。2014年11月までの時点でタカタ製エアバッグの各国リコール台数累計は1700万台にも上っていた。
これを受けて2015年2月、米国運輸省はタカタに1日あたり1万4000ドル(約166万円)の罰金を科すと発表。高田重久会長兼社長は同年6月、エアバッグの欠陥を認める謝罪会見を開き、辞意を表明した。
さらに同年11月、米国運輸省国家道路交通安全局(NHTSA)はタカタに対し、最大で2億ドル(約240億円)の民事制裁金を科すことを発表。NHTSAが一企業に科す制裁金としては過去最高額だった。
以後、国産自動車メーカーのホンダを皮切りにマツダ、スバルがタカタ製インフレーターを新型車に使用しないことを表明。
リコール対象車は世界中で1億台以上となり、北米での制裁金に加え、リコールや訴訟などで、費用は総額1兆7000億円以上に上ると試算された。
今年1月、米国司法省と10億ドル(約1200億円)の支払いで和解したものの、今年3月期決算で3期連続の赤字を計上。苦境に陥ったタカタはついに6月に民事再生法の適用を申請するに至った。
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