日産スカイライン。現在のグローバル化の進む日産においてもその名を守り続けるスポーティカーだ。
しかしスカイラインにはあまりにも多くの伝説があり、強い伝統がある。その基礎を作ったのが初代から7代目途中まで開発責任者であった櫻井眞一郎氏だ。
1980年の「ベストカーガイド」より、自動車評論家、徳大寺有恒氏が生涯忘れないクルマとなったKPGC10(初代スカイラインGT-R)について語ると共に、開発責任者の存在についても迫ります。
37年前、日本で一番有名だった自動車評論家が感じたKPGC10とは?
文:徳大寺有恒/写真:日産
ベストカーガイド1980年3月号「エポックメイキングCAR物語 スカイライン2000GT 20年の技術の系譜とマル秘物語」
■GT-R伝説の序章となったKPGC10とは?
昭和44年、4ドアタイプのGT-R(PGC10)が世に出た頃、私はちっぽけなビジネスをやっていた。ボチボチ自動車雑誌に原稿を書いていたこともあって4ドアGT-Rに試乗することに成功した。確かにそのクルマはすごかった。
4000rpを超えるあたりからのヴァルブ、カムシャフト、キャブレターの吸気音などが醸し出すシンフォニーはマニアをしびれさせるものだったが、比較的短時間で私の頭の中から消えてしまうクルマとなった。
しかし、それから2年後に乗ったハードトップの”R”(KPGC10)は生涯忘れられないクルマとなった。昭和45年10月、私のビジネスは長距離レースのなかでリタイアした。
約5年、この仕事にすべてを投入してきた私は、ショックも少なからず、力ない毎日を送っていたが、ふとハードトップの”R”が発売されていたのを知り、そのクルマで秋深い東北へ旅に出た。
連れはワイフ1人。ラジオはおろか、ヒーターすらない、この”R”に毛布を持ち込んでのドライブだった。
宇都宮を過ぎると国道4号線も空いている。それまでの渋滞に災いされて、重いクラッチとフロアマットすら取り去ったためにキンキンと響くロードノイズに舌打ちしたい気持ちの私だったが、前方に遠くまで続く白い道に、胸にたまっていた雲が消えてゆくのを感じた。
素早いダブルクラッチでサードに落とすと、深々とスロットルを踏み込んだ。とたんにこのゴールドメタリックの狼は牙を剥いた。
黒地に白文字と針というスパルタンなタコメーターは一気にレッドレヴまで登りつめる。
室内はストレート6、DOHC24ヴァルブのカン高い雄叫びとロードノイズで騒然となるが、私の耳にはそのシンフォニーが外界の騒音を断ってくれるような気がしてむしろ心地よかった。
国産最高速のKPGC10のキレ味とは?
”R”のようなクルマはスピードを上げるにつれて、ドライバーをクールにさせるものである。フォースにシフトアップし、それが振り切るとトップに入れた。
”R”の直進安定性は水準以上だが、200km/h近くではスティアリングに最大の注意を払う必要がある。私は私の前に危険が登場しないことを祈りながら、国産車最高速を味わっていた。
矢板から曲がりくねったダート道に入った。この道に入ったとたん、私は全力で走り抜く決意を固めていた。ギアはサードとセカンドが中心で、ごく稀にローギアとフォースを使う。
約60分というものラリーをやっていたときの緊張感を取り戻していた。スティアリング特性はもちろん弱めのアンダースティアだが、コーナーリング中スロットルを閉じると、かなり急にノーズが内側に巻き込む。
何度かピンチに巻き込まれたが、この時とばかりに160馬力、18.0kgmの大パワーにものをいわせて意識的にパワーオーバースティアとし、”安定した”テールスライドでコーナーを抜けていった。
道端の枯れ草を”R”のノーズが叩く。まるで”R”が鋭い鎌のようになった気になり、次々と枯れ草を切っていった。その日実家のある水戸に帰った私は、久しぶりにぐっすりと寝た。激しいスポーツをやったあとのその爽やかな疲労を得たのだ。
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