5年間で総合優勝6回という輝かしい戦歴
ギャランのWRC参戦が決まったのは、市販車リリースの直前のこと。少人数のラリーチームは睡眠時間を削って突貫工事でラリー車の製作を行いました。VR-4ベースのラリー車は、ボディが大きく不利な面もありましたが、4G63エンジンはもともと低中速トルクに優れたエンジンであり、さらに過給圧を上げて最高出力300PS超までパワーアップ。エンジンと並行して実車のチューニングと耐久信頼性の確認試験が急ピッチで進められました。
そして、いよいよ1988年のWRC最終戦RACラリー(現在はラリー・オブ・グレートブリテン)にフィンランド人のバタネン選手を擁して参戦。最終日までトップ争いを展開し、2つのSSでトップタイムを刻みますが、エンジンのオーバーヒートでリタイアしてしまいます。
しかし、VR-4ラリーマシンの力強い走りを見て開発陣は「いける」と確信。その確信を裏付けるように、翌年1989年には1000湖ラリー(ラリー・フィンランド)とRACラリーで早々と総合優勝を飾ります。
最終的な戦歴は、1988年から1992年の5年間で、総合優勝6回、2位4回という輝かしいものでした。また、そのうちの最後の2回の優勝は、三菱の社員でもあった篠塚健次郎選手によるもので、日本人初のWRC優勝ドライバーという金字塔を打ち立てたのでした。
ランエボの功績は、VR-4あってこそ
VR-4で熟成された高性能技術は、1992年にランエボ(ランサーエボリューション)へ引き継がれました。その後、ランエボが10代23年間にわたり進化し続け、今なおその活躍が多くのファンの脳裏に刻まれ、語り継がれているのも、ギャランVR-4の存在があってこそなのです。
また、ランエボの元祖であるだけでなく、その後のハイテク高級セダンのディマンテや高性能4WDスポーツのGTOにも多くの技術が移植されたことは言うまでもありません。ギャランで培われた過給技術や4WDなどアクティブ4技術が、その後の三菱車の開発にとって大きな財産をもたらしたのです。
さらにVR-4の成果としてもうひとつ忘れてならないのは、日本人ドライバーを世界の檜舞台に登場させたことです。先述したように日本人初のWRCグループAの優勝ドライバー篠塚健次郎選手の他にも、グループN(無改造車)で日本人として初めて優勝した井上潔選手が操ったのも、やはりVR-4だったのです。
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6代目ギャランは、単にスポーツモデルの性能を凌ぐスーパーセダンとしての存在に留まらず、その後の三菱自動車の開発に多くの財産をもたらし、名車ランエボを誕生させました。もし、ギャランが存在しなかったなら、ランエボは生まれていなかったかもしれません。1990年代の日本車のラリー黄金時代は迎えられなかったかもしれませんね。
【画像ギャラリー】三菱が誇るスーパーセダン「ギャランVR-4」と、それを受け継いだランサーエボリューション全世代(29枚)画像ギャラリー
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