100年の歴史を刻んできたバス。それぞれの時代の中で、バスも進化と変化を繰り返してきた。人を支えるためにバスは作られ、そんなバスを支えた人たちもいた。いまも続くそんな“いい関係”のひとコマを切り取る。
(記事の内容は、2018年1月現在のものです)
文・写真/諸井泉(特記以外)
取材協力/箱根町郷土資料館・富士屋ホテル・箱根登山バス
参考文献/バス、天下の険をいく~箱根自動車100年~(箱根町立郷土資料館発行)/箱根富士屋ホテル物語(山口由美著 トラベルジャーナル発行)/箱根登山鉄道のあゆみ(昭和53年箱根登山鉄道発行)
※2018年1月発売《バスマガジンvol.87》『あのころのバスに会いにいく』より
■現在の箱根登山バスにつながる組織の第一歩がここで誕生
1913(大正2)年の夏、箱根・富士屋ホテルに宿泊していたホイットニーというマニラ駐在の米陸軍少佐が国府津駅まで貸自動車を頼んだ。国府津から東海道線で神戸まで行き、そこから陸軍輸送船に乗ってマニラへ戻るためである。
ところが頼んだ貸自動車はホテルに来ず、しかたなく人力車で国府津駅に向かうことにした。途中で出会った自動車に乗せてもらい、なんとか国府津駅までたどり着き、乗車予定の列車に間に合うことができたそうだ。
ホイットニー少佐は帰国後に富士屋ホテル宛てに次のような手紙を書いている。「富士屋ホテルともあろう国際ホテルがなぜ他社の自動車を頼りにするのか。一流のホテルにしてなぜ1台の自動車も持たないのか」と。
この手紙をきっかけに、当時富士屋ホテルの取締役をしていた山口正造氏は自動車を購入することを決断。オランダ公使が本国に帰国の際に売りに出していたというフィアットの7人乗り幌型自動車1台とランブラー2台の計3台を使っての運行が始まったのである。富士屋自動車の誕生である。
宮ノ下は箱根のなかでも独特な雰囲気を持つ温泉地である。その独特な雰囲気を醸し出しているのが日本を代表するクラシックホテル「富士屋ホテル」である。
1878(明治11)年、箱根で初の外国人専用ホテルとして開業した富士屋ホテルは、利用客や箱根の観光客の便宜を図るため、富士屋自動車を大正3年に設立している。
先発のMF商会や小田原電気鉄道と同じく、国府津駅と箱根各地を結んで営業したが、外国人観光客を念頭に、当初から横浜と宮ノ下を結んで貸切自動車の営業を行ったことは注目される。この富士屋ホテル創業の地から箱根をめぐる天下の険のバスの歩みをたどってみた。
富士屋自動車の歴史を調べていく中で、箱根町立郷土資料館が2013(平成25)年に特別展図録『バス、天下の険をいく―箱根の自動車100年―』が発行されていることを知った。さらに当時展示された資料の一部が常設展として現在も展示されているという。
早速、箱根町立郷土資料館を訪ねてみることにした。箱根町立郷土資料館は箱根湯本駅から歩いて10分、箱根町役場の隣にあった。その特別展を企画されたのは現在の箱根町立郷土資料館の館長・鈴木康弘氏である。
鈴木館長に館内を案内していただいたが、箱根の交通関係の歴史資料展示の中でも目立っていたのは、富士屋自動車のカーキ色に青襟、青袖の制服・制帽・ブーツが展示されていることだった。
鈴木館長によるとこの制服・制帽・ブーツは初代館長である加藤利之氏が知り合いの富士屋自動車の運転士から譲り受けたそうで、今回の企画展に合わせて展示してあるとのこと。
富士屋自動車では運転士に運転技術や道路地図の習得だけでなく、礼儀作法と英語をも学ばせたそうだ。格式の高い職業であったため、当時としてはモダンな制服を着用させたというが、かっこいい制服制帽に身を包んだ姿はさながら航空機のパイロットのような印象だったという。
大正時代の制服が現代に蘇ったことになり、当時の様子をうかがえる貴重な資料といえよう。