ランエボの“強敵”インプレッサ誕生の背景
しかし、そんなランエボIの船出に立ち塞がった存在こそ、同じ1992年に現われたスバル「インプレッサWRX」である。スバルのレガシィRSに代わるひと回り小さなマシンはWRC参戦車両として開発された最高性能モデルであったが、その成り立ちはランエボと少し違っていた。
1980年代の後半、スバルでは軽自動車と主力のレガシィの中間に大衆車の中心となる車両開発が始まっていた。この開発の中心にいたのが伊藤健氏だった。
「新車の開発の全権を委任されたような状態」と伊藤氏だが、目的はあくまでも大衆車開発。新たなモデルは当初、WRC参戦などという思いはなかった。開発当初はすでにレガシィでWRC参戦に向けて準備が続き、中心的存在ではあった。
一方で「開発が進むにつれ、小振りなクルマにレガシィのハイパワーターボエンジンを乗せたらどうなるだろうか?」というプランが浮かんできたという。実現すれば「一躍“ハイパワー車ありき”となり、大いに話題になる。プロジェクトの目玉ができる」と考えたという。
そんな思いを強くしたのは、このプロジェクトが始まってすぐ。伊藤氏は当時の五味部長とともに欧州ディストリビューター(卸売業者)を訪ねて意見交換を行い、ジュネーブモーターショーにも出かけた。
そこではレガシィのWRC参戦の発表会に立ち会い、それが終わるとイギリスのレーシングカーコンストラクター「プロドライブ」を訪れ、デビッド・リチャーズとデビット・ラップワースに会ったという。
その際、ラップワースにレガシィを前にして「本当はこのクルマで全長が150mm、ホイールベースが60mmくらい短いと最高なんだが……」と言われた。それはまさに開発を進めている「WRX」の寸法だった。「“今作っているよ!”と言いたかったが、そこでは言葉をのんだ」と伊藤氏。ふたりはWRXプロジェクトの大いなる可能性を確信して帰国したという。
そして、課題である冷却性能、駆動系やボディ剛性の強化、レガシィより短いエンジン前部に詰め込まなければならないインタークーラーの問題などを一つひとつクリアし、一般路からサーキット走行までこなせるほどのターボモデルを完成させた。
正式名称は開発時に便宜上使っていた通称のWRX=ワールド・ラリー・エックスを採用してデビューさせたのだ。
当初は互いを意識してなかった“エボ”と“インプ”
三菱 ランエボとスバル インプレッサWRX。結果としては伝説とも呼ばれるライバル関係が1992年から始まったわけだが、どちらも“より小さなボディにハイパワーエンジンと4WDを移植する”というコンセプトにおいては同じ。だが、その成り立ちには少しばかり差があったようだ。
以前、吉松氏と伊藤氏に同じ質問をしたことがある。「開発時にお互いの動きや情報を掴んではいなかったのですか?」である。
すると、どちらも「まったくわからなかった」と声を揃えて言うのである。三菱の吉松氏は「技術屋というのは外のことに疎くて、情報もほとんどなかったし、あまり関心もなかった。自分のプロジェクトに精一杯だった」という。
一方、スバルの伊藤氏によれば「クルマをまとめるに当たり、性能の目標数値を明確にする必要があり、コンペティターとしてクラスの違う日産のスカイラインGT-Rを定め、さっそくR32を購入して、あらゆる道路で乗り回した」という。
つまり、まったくランサーのことなど同クラスのライバルを想定もしていなかった訳だ。だが完成した2台は“時代が求めていたスポーツカー”だったということだけは明確だ。
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