最近は、車両制御技術やタイヤといったものの性能が向上したし、万人向けに安定志向のセッティングに振っているクルマも多い。
しかし、クルマはヤンチャで刺激的なほうが面白い…、そんな風に思っている方も多いのではないだろうか? とはいえ、それも程度が過ぎれば、手が付けられないじゃじゃ馬車でしかなくなってしまう。
今回は、デビュー当初に試乗し、強い個性と魅力を感じたが、そのじゃじゃ馬具合に思わず驚いたクルマについて、デビュー時の素性とその後どのような改良がされたのかを、鈴木直也氏に語ってもらった。
危うさを持ちながらも魅力的だったクルマたちの、本当の姿を知っていただきたい。
文/鈴木直也
写真/NISSAN、MAZDA、HONDA
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■トヨタ MR2(SW20型)
日本初のミッドシップスポーツとして、1984年にデビューした初代MR2(AW11)は、あえて穏やかに味付けしたシャシー特性や、トルクの細い4A-Gのエンジン特性などによって「楽しいけれど刺激が足りない」というのが大方の評価だった。
それをバネに奮起したのかは定かではないが、1989年デビューの2代目MR2(SW20)は、最強モデルに3S-Gターボ(225ps/31kgm)を搭載するなど大幅にパワーアップ。本格派ミッドシップスポーツにチャレンジしたのだが…。
パワーアップに見合ったシャシー強化が行われたとは言い難く、操安性に深刻な問題が発生。最初の試乗会はヤマハのテストコースで行われたのだが、レース経験豊富な腕利きジャーナリストがいきなりクラッシュするなど、参加者全員がそのハンドリングに首をひねるクルマとなってしまったのだ。
ヨー慣性の小ささを感じさせる機敏な回頭性や横G限界の高さは、さすがミッドシップと感じさせるものの、タイヤが滑り出し始めてからの過渡特性はきわめてナーバス。
2400mmという短いホイールベース、量産車流用(ST160系セリカ)の足回り、LSDのないオープンデフなど、原因はいくつも考えられるが、チーフエンジニアがスポーツカーをまったく理解していなかったのが根本的な問題だったと言わざるを得ない。
その後、SW20は10年にわたって生産されるのだが、後半はマイチェンのたびにシャシーの改良を実施。1993年のいわゆる3型以降でなんとかハンドリングに及第点を与えられるクルマになり、1997年の5型でほぼ完成の域に達したと評価できるまで熟成された。
途中でギブアップせず、開発を継続したのはさすがトヨタだが、それだけに初期型のジャジャ馬っぷりが際立つクルマだった。
■ ホンダ インテグラタイプR(DC2型)
1995年に登場した初代インテグラタイプRは、NSXの開発責任者を務めた上原繁さんの“お遊び”からはじまった。
当時のホンダは経営状態が思わしくなく、RVを他社からOEM供給してもらうような情けない状態。
エンジニアを腐らせないため「いっちょインテグラをベースに、自分が欲しくなるようなスポーツバージョンでも作ってみるか?」という上原さんのかけ声で開発がスタートした。
それを象徴するのが、初期モデルのエンジン(B18C)で行われていた手作業のポート研磨。当時上原さんは「コレやると上のほうで数馬力違うんですよー」と笑っていたが、大マジメな量産モデルというよりは「シャレで少量見るみる作ってみる?」というニッチ狙いのクルマだったことは間違いない。
ところが、ホンダの好き者エンジニアが「自分たちが欲しくなるようなクルマ」を作ったのだから、それが悪かろうはずがない。
まずその楽しさに気づいたのは、箱根や筑波サーキットでテストしたわれわれジャーナリスト。そして、すぐさま熱狂的に賞賛する記事がメディアを通じて拡散し、予想を超えるヒットとなっていく。
そうなると、ホンダも本腰を入れて量産体制を整える必要に迫られ、タイプRのバリエーションも増える。
インテRそのものも、1998年スペックでボディ補強を含む大幅な改良を実施し、さらに上を目指して走りの完成度は高まってゆくわけだ。
ところが皮肉なもので、改良を実施すればするほど初期インテRの魅力だった「好き者が作ったジャジャ馬」っぽさは薄れ、ただの「速いクルマ」に変わってしまう。
速さだけにとらわれるとスポーツカーは飽きられる。やっぱり作り手側の情熱が大事ってことでしょうかねぇ?
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