今振り返ってみると「伝説の名車」と呼ばれ、それ以降の多くの新型車に強い影響を与えたモデルがある。そうしたクルマは登場時から「これで自動車界が変わる」と受け止められていたのだろうか。「そのこと」がわかっていた人はたくさんいたのか。
また、大きく世界を変えただけに、登場や普及には紆余曲折があったのではないか。
そんな、伝説級の名車が登場した際の世の中の反応と背景を、当時を知るジャーナリストに振り返っていただきます。
文/片岡英明 写真/マツダ、ベストカー編集部
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■開発陣がこだわったのは「金がなくても…」
マツダのロードスターはユーノス・チャネルのイメージリーダーとして1989年夏に鮮烈なデビューを飾った。
が、実際のデビューは2月のシカゴオートショーで、このときの最終プロトタイプは海外向けのMX-5 Miataの名を使っている。このスポーツカーが注目を集めたのは、そのころ絶滅の危機にあったオープン2シーターだったからである。
しかも後輪駆動のFR方式を採用したライトウエイト・スポーツだった。だから会場に足を運んだ人は驚きの声をあげている。
ロードスターの開発が始まったのは1986年の初頭だ。
商品企画開発推進本部の平井敏彦さんが指揮をとり、夢に向かって動き出した。開発陣は、どこにでもある、当たり前のクルマでは売れないだろう、と思ったようだ。だから大胆な発想でクルマ好きの夢を実現しようと考え、開発をすすめた。
もっとも重視したのは、「運転して楽しいこと」だ。そこでFF車が全盛の時代に、あえて古典的な後輪駆動のFR方式を選んだのである。当然、平井敏彦主査は、企画を出したときから、軽量なオープンカーしか考えていなかった。
マツダにはロータリーエンジンを積んだRX-7という名スポーツカーがある。だから社内ではロータリーエンジンの搭載を望む人が多かったし、高性能なスポーツカーになることを期待した。
だが、開発陣はカネがないスポーツモデル好きの若者でも気持ちいい走りを楽しめるクルマを出したかったのである。ハンドリングに関しては妥協しなかったが、流用できる部品は積極的に使って生産コストを低く抑えた。
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