平成があと3カ月あまりで終わろうとしている。1989年……、昭和64年は1月7日をもって幕を閉じ、翌1月8日から平成の時代がはじまった。平成の始まりは期せずして、日本のスポーツカー新時代とリンクすることになった。
この年、R32GT-Rが16年ぶりにデビュー。フェアレディZは280馬力に到達し、280馬力自主規制が始まった。いっぽう、マツダがユーノスロードスターを投入したのも平成元年。翌平成2年(1990年)にはホンダNSX、三菱GTOなどがデビューした。
平成の始まりとともに、日本を代表するスポーツカーが続々とデビューしたのだ。そんな平成という時代を振り返りながら、ニッポンのスポーツカーの歴史を辿ってみる。
■PART1/「谷田部の時代」平成の30年を性能テストで振り返る
平成の幕開けとともに『日本車280馬力』時代が到来した。言うまでもなくスカイラインGT-Rであり、フェアレディZなど。翌平成2年に登場したホンダNSX、三菱GTOなどが「280馬力」を掲げて颯爽と登場した。
この時代、ベストカーにかぎらず自動車雑誌は性能テストに躍起だった。それまでの日本車は最高速200㎞/h出せるかどうかが大きなカベで、ゼロヨン加速だって14秒台というのがやっとだった。
平成前夜、昭和61年に登場した2代目ソアラの3.0GTリミテッドが最高速241.00㎞/hをマークし、A70型スープラの限定モデル『3.0GTターボA』が255.20㎞/hを出したのが、その後の平成時代に繫がる最高速テストの盛り上がりの序章だったのだ。
茨城県つくば市にあった日本自動車研究所(JARI)の高速周回路。その所在地から『谷田部』と呼ばれていたテストコースにデビュー直後のスカイラインGT-Rが運び込まれたのは平成元年9月のこと。当時のテストは午前4時現地集合、機材の準備などをして5時前にはテスト開始というのが常だった。
「小野ビット」と呼ばれる非接触式の計測機材をトランクリッドに装着し、バンク出口直線端に設置されたスタート地点でスタンバイ。計測の万全を期すために400m地点と1000m地点には光電管式のタイム計測器を設置する。
テスト当日はあいにくの小雨模様だった。谷田部の路面もウェット状態。ライバル車としてフェアレディZツインターボ、スープラ3.0GTターボAも用意された。
〝シュワーン、シュワーン〟とメカニカルな直列6気筒エンジンのブリッピングが夜明けの谷田部に響く。
〝ギュアァァァァァ〟高音質なエンジン音。RB26DETTが7000rpmでスタートのタイミングをはかる。
〝ギュ……ギュワァァァ〟一瞬の間を置いて一段と甲高さを増したエンジン音がスタート地点から近づいてくる。
GT-Rより前にテストしたZやスープラでは濡れた路面からグリップを取り戻すため、アクセルワークがエンジン音からもわかったのだが、GT-Rはアクセルを戻すようなエンジン音はしない。そうアテーサE-TSの威力でアクセル全開のままウェット路面をものともせずにスタートダッシュを一発で決めたのだ。
そのまま400m地点を過ぎあっという間に1000mを超えてバンクに突入していくテールランプを見送った。
圧巻だった。この時計測されたゼロヨンは13秒14、1000m通過タイムは24秒51。そして最高速は247.990㎞/hだった。同日のテストでスープラターボAのゼロヨンは13秒58であった。
アテーサE-TSの強力なトラクションの結果でもある。後日、ドライコンディションで再テストしたGT-Rは12秒98のゼロヨンをマークした。
最高速は250㎞/hを切り、あまり伸びなかった印象だが、これはGT-Rがトップスピードよりも加速性能やコーナリング性能を重視した結果、ダウンフォースを高め空力が最高速向きではなかったことも要因。
この時のスープラターボAは255.20㎞/hの最高速をマークしていることからも、その特性の違いがわかるだろう。翌1990年にデビューした初代NSXはゼロヨン12秒73、最高速266.00㎞/hをマークした。
そして現代、R35型GT-Rはゼロヨン11秒台、最高速300㎞/hの世界でNSXやポルシェ911としのぎを削っている。テストの舞台は谷田部から茨城県城里町にあるJARIの新テストコースに移った。「谷田部の時代」からの緊張と興奮は連綿と受け継がれていく。
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